明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり、エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz)。ベルツ博士として知られるその人こそ、草津温泉、伊香保温泉を世に紹介し、その後の温泉保養地としての基礎を築いた恩人です。しかもベルツ博士の研究をPRに活かしたのが伊香保温泉なのです。
ベルツ博士の温泉分析は、伊香保がモデル
日本で最初の科学的な手法による温泉分析は、文政9年2月17日、長崎・出島のオランダ商館付き医師、フォン・シーボルトと、同行のオランダ人技師ハインリッヒ・ビュルガー(Heinrich Burger=医師シーボルトのもとで薬剤師を務めた日本最初の近代的薬剤師)が行なった嬉野温泉の分析。
明治維新後の文明開化で、先進のドイツからお雇い外国人を招いて、医師の養成なども始まります。その一環として、明治7年3月、東京・日本橋馬喰町に東京試薬場(日本橋仮庁舎、8月に神田和泉町の東京医学校構内に移転)が設置され、ここで温泉の分析も進められます。
東京試薬場では、明治7年からドイツ人植物学・製薬学者ゲオルク・マルティン(Georg Martin/薬品試験業務の監督)の指導のもとで伊香保、四万、草津の各温泉の成分分析が行なわれ(「熊谷県管下鉱泉分析表及医治効用」)、伊香保温泉の効能は、胃弱や貧血のほか、経久悪性僂麻質私、褸麻質性関節痛、腰痛、神経痛、鉱毒ヨリ来ル所の麻痺といった関節や神経の痛みやしびれ、皮膚病、また月経不調などの婦人病に効くとされました。
ベルツ博士が「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。もしこんな土地がヨーロッパにあったとしたら、カルロヴィ・ヴァリよりも賑わうことだろう」と評価した草津を訪れるのは明治11年なので、それ以前に、マルティンは群馬県や足柄県(神奈川県)での温泉の成分分析を行なっていたのです。
文明開化を反映し、西洋風「医治効用」の新知識の流布を背景に、伊香保温泉を訪れる温泉客は増加するとともに、湯治客には飲泉の効用などにも興味が広がっていきます。
明治11年に、伊香保温泉では大火がありますが、その後、急速に復興し、夏期の滞在客が1万人にまで伸びたことから温泉旅館の増築ラッシュを迎えています。
お雇い外国人のひとり、ベルツ博士(「日本の近代医学の父」)は、日本の温泉の状態と、温泉地の改善案を内務省に建白していますが、その文書が翻訳され、明治13年7月に『日本鉱泉論』として出版。
この温泉分析(鉱泉分析)のモデルが伊香保温泉だったため、当時の外国人たちをふくめ、政府の高官などの目も伊香保温泉に注がれるようになります。
『日本鉱泉論』の出版に合わせたかのように、伊香保温泉の旅館の主人たちは、近代的な温泉の効用に主力を置いたPRを展開します。
明治13年8月には、錦絵『伊香保温泉繁栄之図』」(篠田仙果・木暮金太夫)、『浴客必読 伊香保説話』(篠田仙果)、『伊香保温泉入浴法幼童諭』(篠田仙果)、さらに翌明治14年には錦絵『上野国伊香保鉱泉浴客病痾全快祝宴』(伊香保名所廉盟舎・篠田仙果誌)などなど、明治18年にかけては毎年、様々な宣伝媒体が印刷出版されているのです。
温泉旅館の主人らによる、内務省と、ベルツ博士のお墨付きの伊香保温泉といったイメージ作りは明治20年代にも続けられ、明治17年に高崎まで鉄道が開通したことも合わせて、明治23年には伊香保温泉が皇室の御料地(夏の避暑地)に選定されているのです。
若きベルツ像が伊香保温泉の源泉、源泉湧出口観覧所横に立っているのは、そんな伊香保温泉の歴史を背景にしているのです。
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