トルコ軍艦遭難慰霊碑

紀伊大島(和歌山県串本町)の東端に建つ樫野埼灯台(かしのざきとうだい)の沖合は、海の難所として有名。明治23年にオスマン帝国(現・トルコ)軍艦エルトゥールル号が樫野埼灯台近くの船甲羅で座礁し、大きな犠牲を生みました。その悲劇を今に伝えるのがトルコ軍艦遭難慰霊碑(トルコ軍艦遭難者墓地)です。

樫野崎で遭難したオスマン帝国軍艦の乗組員を慰霊

台風で大時化の海を進むエルトゥールル号

潮の流れが激しく、遭難が多かった樫野崎沖。
灯台が完成した後も海の難所には変わりなく、オスマン帝国(トルコ)巡洋艦エルトゥールル号(Ertuğrul Fırkateyni/2344トン)の遭難事件が生まれたのです。

オスマン帝国は明治天皇がアブデュル・ハミト2世に贈った大勲位菊花大授章の返礼として明治天皇にイムティヤーズ勲章を贈ることを決め、そのためにエルトゥールル号が横浜へと航海しています。

明治23年6月7日、エルトゥールル号横浜港着。
当時、日本国内にコレラが蔓延していたために、乗組員11名が感染して死亡しています。
そのために乗組員と船は横須賀の長浦消毒所に隔離されます。
明治23年9月15日、横須賀出航。

明治23年9月16日、台風が来襲により天気は悪化し、熊野灘は荒れ模様。
木造艦のエルトゥールル号は、メインマストが折れ、進退の自由を失って樫野埼灯台下の岩礁・船甲羅へと流されて座礁沈没したのです。
「船甲羅」は地元の人々が海難の多発地帯と恐れる場所です。

エルトゥールル号が遭難した時、生存者は樫野埼灯台の灯火をたよりに陸地を目指し、灯台官舎(この建物は現存)へ救援を求めています(エルトゥールル号事件遭難者上陸地は、樫野埼灯台・旧官舎とトルコ軍艦遭難慰霊碑の中間地点)。

エルトゥールル号が座礁した船甲羅

日本とトルコの友好を生んだ悲劇

当時の行政は、串本村・冨二橋村・和深村・潮岬村・有田村・田並村(後の串本町)と、古座村・西向村・田原村・大島村(後の古座町)に分かれていました。

この時、旧大嶋村樫野地区の島民により献身的な救助活動が行なわれ、580余名のうち69名が救助され、座礁した船甲羅の岩礁を見下ろす丘に遺体が埋葬されたのです。
当時の記録によれば、負傷者を大龍寺、蓮生寺に収容して治療看護にあたっています。

9月20日にドイツ軍艦ウォルフ号が大島港に入港。
ウォルフ号で生存者を神戸に移送し、10月10日に軍艦比叡、軍艦金剛によって、69名の生存者をオスマン帝国へと送り出しています。

のちに昭和天皇の行幸にともない、トルコ共和国初代大統領ケマル・アタチュルクが慰霊碑の建設を決定、昭和12年に慰霊碑が完成しています。

現在も節目の年には、トルコ本国からトルコ海軍の艦船が訪れ、駐日トルコ大使などを招いて慰霊祭を実施。
トルコでは教科書にも載っている事件で、イラン・イラク戦争時のテヘラン空港脱出時、日本政府の対応が遅れたときに、トルコ航空機が日本人の救出に向かうなど、日本とトルコとの友好は今も続いているのです。

トルコ軍艦遭難慰霊碑
名称 トルコ軍艦遭難慰霊碑/とるこぐんかんそうなんいれいひ
所在地 和歌山県東牟婁郡串本町樫野
関連HP 南紀串本観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR串本駅から熊野交通バス樫野灯台口行きで37分、終点下車、徒歩5分
ドライブで 阪和自動車道南紀田辺ICから約81km
駐車場 84台/無料
問い合わせ 串本町観光協会 TEL:0735-62-3171/FAX:0735-65-1070
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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