山口県萩市呉服町、江戸屋横丁に面して建つのが木戸孝允旧宅(きどたかよしきゅうたく)。幼少時、向かいの桂家の養子となったため、桂小五郎の名もある木戸孝允。養子に出た直後養母が亡くなり、結局この生家で青春時代を過ごしています。国の史跡。
萩城下・江戸屋横丁に、木戸孝允生誕の地が!
豪商・江戸屋があったことが街路名の由来という江戸屋横丁。
藩主が通る御成道から江戸屋横丁に少し入った場所に建つ建物は、木造瓦葺きの2階建て。
木戸孝允の実父の和田晶景(わだしょうけい)が藩医だったため、来客用の玄関のほかに、患者用の玄関も別に備えられています。
木戸孝允旧宅には、木戸孝允が誕生した部屋や勉強部屋などが当時のまま残され、「今日」と書かれた7歳〜8歳頃の書などが飾られています。
観覧には、「萩市文化財施設1日券」が利用可能。
維新の三傑、木戸孝允の活躍を知る
大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑に数えられる木戸孝允。
天保4年6月26日(1833年8月11日) 、長州藩の藩医である和田昌景の長男として生誕。
天保11年(1840年)、7歳で萩藩士(長州藩士)・桂孝古の末期養子となりますが、翌年、桂家の養母も亡くなったため、和田家に戻っています。
藩校明倫館に通い、吉田松陰の兵学門下となり、山鹿流兵学を学び、嘉永5年(1852年)、剣術修行を目的に江戸留学、江戸三大道場といわれた練兵館(神道無念流)に入門。
嘉永6年(1853年)、ペリーの江戸湾来航を目の当たりにし、江川英龍に弟子入りして台場建設を見学、兵学・砲術を学び、藩に軍艦建造の意見書『相州海岸警衛に関する建言書』を提出しています(長州藩は洋式軍艦を建造)。
文久2年(1862年)には萩藩(長州藩)の要職に就き江戸から京へと上り、京では新選組に追われながら、桂小五郎の名で活躍(桂小五郎・幾松寓居跡があります)。
慶応元年(1865年)、藩命により姓を木戸と改め、翌年、薩長同盟の締結に尽力しています。
明治維新では、五箇条の御誓文、版籍奉還・廃藩置県、四民平等、明治憲法の制定、東京奠都などの諸政策を提案し、実現。
明治10年、西郷隆盛に批判的な木戸孝允は、西南の役の途中に自ら出陣を希望、その途中、持病(大腸癌)が悪化し、京都の別邸で病死。
墓所は、京都の霊山護国神社。
木戸孝允旧宅 | |
名称 | 木戸孝允旧宅/きどたかよしきゅうたく |
所在地 | 山口県萩市呉服町2 |
関連HP | 萩市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR萩駅から萩循環まぁーるバス西回りで19分、萩城城下町下車、徒歩1分 |
ドライブで | 中国自動車道山口ICから約45km |
駐車場 | 中央公園駐車場(146台/有料) |
問い合わせ | 萩市観光課 TEL:0838-25-3139 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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