野山獄跡・岩倉獄跡

野山獄跡・岩倉獄跡

山口県萩市今古萩町、かつての萩藩藩士野山家と岩倉家の屋敷跡が、野山獄跡・岩倉獄跡。道(常念寺筋)を挟んだ両側にある屋敷跡は、藩政時代の長州藩の牢獄。野山獄は上牢として上級武士を、岩倉獄は下牢として庶民が収容されていました。現在は跡地に石碑が残るのみとなっています。

萩藩の波乱に富んだ維新の歴史を学ぶ

野山獄跡・岩倉獄跡
岩倉獄跡

道を隔てて向かいに建つ両家は、ともに萩大組で禄高は200石。
仲が悪く、正保2年(1645年)、酒に酔った岩倉孫兵衛が、野山六右衛門の邸内に切り込み、家族を殺傷したため、岩倉孫兵衛は斬首の刑に処され、両家とも取りつぶしに。
屋敷は藩に没収され、牢獄に転用されていました。

吉田松陰も海外渡航失敗の際、一時野山獄送りとなっていますが、牢内で孟子を講義し、獄吏も廊下で松陰の講義に耳を傾けたと伝えられています。
野山獄には幕末の文久年間(1861年〜1864年)、元治年間(1864年〜1865年)、尊王攘夷派の高杉晋作や楫取素彦(かとりもとひこ=吉田松陰の次妹の寿と結婚)ら多くの志士も長州藩内の恭順派の手によって入牢していますが、佐幕派を支持した坪井九右衛門(つぼいくえもん=村田清風の藩政改革に協力)、幕府への恭順を訴え、尊王攘夷派を弾圧した椋梨藤太(むくなしとうた)なども尊王攘夷派によって処刑された地にもなっています。

幕末の長州藩は、幕府を支持する佐幕派と尊王攘夷派が対立、椋梨藤太は尊王攘夷派に対して手荒い弾圧などを行なったため、奇兵隊など尊皇攘夷派が盛り返した際には、逃亡を図りますが、捕縛され、斬首となっています。
長州藩も単純に、倒幕、新政府を目指したのではなく、藩内には様々な意見があり、最終的に倒幕に傾くまではすさまじい権力闘争が行なわれていたことがわかります。

野山獄跡・岩倉獄跡
野山獄跡・岩倉獄跡
名称 野山獄跡・岩倉獄跡/のやまごくあと・いわくらごくあと
所在地 山口県萩市今古萩町
関連HP 萩市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR萩駅から萩循環まぁーるバス西回りで28分、野山獄跡入口下車、すぐ。またはJR東萩駅から徒歩15分
ドライブで 中国自動車道山口ICから約45km
駐車場 中央公園駐車場(150台/有料)
問い合わせ 萩市観光課 TEL:0838-25-3139
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
常念寺(萩市)

常念寺(萩市)

山口県萩市下五間町、野山獄跡・岩倉獄跡のある通り(常念寺筋)沿いに建つ、浄土宗の寺が、常念寺。寺の表門は、かつての京・聚楽第(じゅらくだい)の裏門で、その解体時に毛利輝元(もうりてるもと)が豊臣秀吉から授かったものと伝えられ、国の重要文化財

 

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