天智天皇2年(663年)、朝鮮半島の白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で、唐・新羅連合軍に大敗した倭国(ヤマト王権)は、対馬、北九州、瀬戸内海に防御の拠点として数多くの山城(砦)を築いています。これが日本史上初となる国際的な危機で、なんと都を内陸に移す処置まで講じているのです。
西日本に27城を築いて、唐・新羅連合軍に備える
6世紀〜7世紀の朝鮮半島では高句麗(こうくり、コグリョ=朝鮮半島北部の広大なエリアを支配)、百済(くだら、ペクチェ=朝鮮半島南西部を支配)、新羅(しらぎ、シルラ=朝鮮半島南東部を支配)の三国が並立し、三国時代と呼ばれています。
その後、新羅に統一される過程で、唐(中国)は高句麗を制圧するため新羅侵略を企図し、新羅を支援して百済を攻撃。
斉明天皇6年(660年)、百済は滅亡しますが、王族や遺臣たちは倭国(ヤマト王権)に救援を求め、天智2年8月(663年10月)、朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で、最終決戦ともいえる白村江の戦いが起こります。
倭国(ヤマト王権)が、朝鮮に出兵する際に大宰府周辺には水城(みずき)、大野城(おおのじょう、おおののき)、基肄城(きいじょう、 きいのき)が築かれ、いざという際の備えにしていますが、北九州や瀬戸内海沿いにも百済系の技術者によって朝鮮式山城が多数築かれています。
文献などに記載される山城が11城(高安城、茨城、常城、長門城、屋嶋城、大野城、基肄城、鞠智城、金田城、三野城、稲積城)、未記載を含めると29城が確認され、いかに緊迫した国際情勢だったかがよくわかります。
明治時代に清国艦隊やロシアのバルチック艦隊の来襲を想定して対馬、壱岐、さらに海峡、大阪湾の入口、東京湾入口などに要塞を築いていますが、数的にはこの古代山城の方が多いくらいです。
備中国の築かれた鬼ノ城(きのじょう/岡山県総社市)は史書に記載がありませんが、発掘調査などから7世紀後半の築城と判明し、ちょうど築城の時期が百済滅亡時代と一致します。
難波津(大阪港)と那大津(太宰府・博多)の中間に位置する吉備津を守る、瀬戸内海防備の重要な拠点だったと推測できます。
『日本書紀』に「大和国の高安城(たかやすのき)、讃岐国山田郡の屋嶋城、対馬国の金田城を築く」と記された高安城は、奈良県生駒郡平群町と大阪府八尾市との境にそびえる高安山に築かれた朝鮮式山城で、ヤマト王権最後の砦のような位置関係です。
最前線の対馬(つしま/現・長崎県)には金田城(かねだじょう、かねたのき)の山全体を2.8kmにも及ぶ石塁で取り囲んだ頑強な造りとなっていて、いかにも国境警備の城といったイメージです。
この地に、防人(さきもり)が配置され、唐・新羅連合軍の来襲に備えたのです。
加えて、天智天皇(中大兄皇子)は、天智天皇6年(667年)、飛鳥から近江大津京に遷都していますが、万一を考えてより内陸に都をという意味合いがあったのかもしれません。
ヤマト王権を考えるとき、前方後円墳などに注目が集まりますが、ドラマチックなアジア情勢を反映したこうした古代山城は、古代といえども外交が重要だったことを証明する大切な遺構です。
ちなみに、時代区分では飛鳥時代ですが、律令制以前で大和朝廷とはいえないため、ここでは倭国(ヤマト王権)としています。
ヤマト王権に迫った国際的な危機とは!? | |
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