山形県米沢市にある松が岬公園は、江戸時代に上杉家の居城、米沢藩の藩庁だった米沢城跡に整備された公園で、城下町の歴史と文化の中心地ともなっている公園。県内屈指の桜の名所で、市民の憩いの場。本丸跡には上杉謙信が祀る上杉神社が、二の丸跡には上杉伯爵邸が建っています。「続日本100名城」選定。
本丸跡には上杉神社が鎮座
米沢城を近世城郭としてなったのは、慶長18年(1613年)、上杉景勝の命により、直江兼続の大改修で。
藩政時代の米沢城は、本丸、二の丸、三の丸からなる輪郭式縄張りの平城。
天守は築かれず、本丸の東北隅と西北隅に2基の三階櫓(御三階)を建て、代用天守としていました。
戊辰戦争で、米沢藩は奥羽越列藩同盟に加わっていますが、版籍奉還後に13代藩主(最後の藩主)・上杉茂憲(うえすぎもちのり=戊辰戦争後に藩主に)は、米沢藩知事に就いています。
明治5年、12代藩主だった上杉斉憲(うえすぎ なりのり=明治元年に隠居し、子の上杉茂憲が藩主に)は城内にあった上杉謙信霊屋(御堂)を上杉鷹山とともに合祀し上杉神社を創建。
明治7年に城跡全体が松が岬公園として公開されています。
明治9年、上杉謙信霊柩は上杉家廟所へ遷し、上杉神社を本丸跡に遷座。
二の丸跡に建つ上杉記念館(上杉伯爵邸)は、大正14年再建の上杉家14代当主・上杉茂憲伯爵邸(明治29年に創建されていますが、大正8年の米沢大火で焼失)。
「鶴鳴館」(かくめいかん)と呼ばれた建物は、上杉記念館(上杉伯爵邸)として再生され、米沢牛・郷土料理が提供され、喫茶などの利用が可能。
松が岬公園では、春に『米沢上杉まつり』、冬には『上杉雪灯篭まつり』が開催されています。
公園にはソメイヨシノの古木が多く、お堀端に並ぶ200本の桜の開花時期(4月中旬〜5月上旬)には夜桜見物も楽しめます。
「なせば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」で知られる10代藩主・上杉鷹山の像は、松が岬公園東側の松が岬第2公園に座像で、上杉神社の参道に立像があります。
実は伊達政宗生誕の城でもある!
独眼竜の異名を持つ伊達政宗(だてまさむね)は、永禄10年8月3日(1567年9月5日)、伊達輝宗の嫡男として、正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)から米沢城で生まれ、天正17年(1589年)に蘆名義広を破り、黒川城(114万石)に本拠を移すまで、米沢城が拠点でしたが、そのこと(伊達政宗生誕の城)はなぜかあまりPRされていません。
この黒川城への移転は、豊臣秀吉が許さず、いったん米沢に戻り、天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命により岩出山城(58万石)に移っています。
その後、米沢城は蒲生氏郷の支配下となり、重臣・蒲生郷安が米沢城主となっています。
慶長2年(1597年)、蒲生氏郷の子、蒲生秀行が宇都宮に転封され、会津に越後から120万石で上杉景勝が入封し、米沢城には重臣・直江兼続(なおえかねつぐ=NHK大河ドラマ『天地人』主人公)が入っています。
秀吉没後、上杉景勝は同じ五大老の徳川家康と対立し、関ヶ原合戦を誘引した会津征伐が生まれます。
その結果、関ヶ原合戦後に120万石から米沢など52万石に減封され、米沢藩を立藩。
明治維新まで米沢城が米沢藩の藩庁として上杉家の治世が続いたのです。
松が岬公園(米沢城跡) | |
名称 | 松が岬公園(米沢城跡)/まつがさきこうえん(よねざわじょうあと) |
所在地 | 山形県米沢市丸の内1 |
電車・バスで | JR米沢駅から山形交通バス白布湯元行きで8分、上杉神社前下車、徒歩5分(バスは本数が少ないのでタクシー利用が便利) |
ドライブで | 東北自動車道福島飯坂ICから約38km |
駐車場 | 松が岬おまつり広場駐車場(300台/無料) |
問い合わせ | 米沢市建設部都市整備課 TEL:0238-22-5111/FAX:0238-24-4541 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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