大泉寺

山梨県甲府市古府中町にある曹洞宗の寺、大泉寺(だいせんじ)甲州統一を果たし、武田氏歴代の居館のあった鎌倉街道の起点・石和(いさわ)から府中・躑躅ヶ崎(つつじがさき)へ館を移したのは武田信玄の父・信虎。信虎は信玄によって駿河へ追放されますが、信虎の祈願所で、死後、その遺骸が埋葬されたのが、躑躅ヶ崎館に近い大泉寺。

武田氏霊屋と信玄の父・信虎の墓がある

絹本著色武田信虎像(信兼筆・国の重要文化財)などの寺宝がある大泉寺は、大永元年(1521年)、武田信虎が創建した寺。

総門から本堂へと立派な杉並木が続き、本堂の裏手には信虎の築庭と伝わる池泉回遊式の庭園もあります。
総門は柳沢吉保の菩提寺・永慶寺(現・奈良県大和郡山市永慶寺町/黄檗宗)から移築したもの。
黄檗宗様式の門ですが大泉寺自体は、曹洞宗の寺です。

本堂の右手奥には、武田氏の霊屋があり、その傍に信虎の墓が置かれています。
天文10年(1541年)、信濃・佐久から戻った武田信虎は、娘婿の今川義元と会うために駿河に赴きます。
その間に、板垣信方(いたがきのぶかた)ら譜代家臣の支持を勝ち得た武田晴信(信玄)は、信虎の帰路を塞ぎ、駿河に幽閉。
武田氏の戦略・戦術を記した軍学書『甲陽軍鑑』によれば、今川義元との共謀があったとされ、生きている間に、武田信虎は二度と甲州の地を踏むことができなかった。

信虎は今川義元の死後、その子・今川氏真(いまがわうじざね)と仲が悪く、志摩(現・三重県)へ移って軍師をし、その後、信玄の妻・三条夫人の縁を頼って京に入るなど戦国時代らしい波乱の人生を送っています。
それでも信虎は信玄の死後も生き続け、信玄亡き後、その子・武田勝頼(信虎の孫)を頼って高遠城に入り、81歳で高遠で生涯を閉じているのです。

名称 大泉寺/だいせんじ
所在地 山梨県甲府市古府中町5015
関連HP 甲府市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR甲府駅から徒歩20分
ドライブで 中央自動車道甲府昭和ICから約6.8km
駐車場 20台/無料
問い合わせ TEL:055-253-2518
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

武田神社(躑躅ヶ崎館跡)

大正8年、武田信玄を祭神として創建された神社で甲斐の国の総鎮守。場所は武田信虎、信玄、勝頼の武田氏3代、63年間の居城だった、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)跡。1575(天正3)年に長篠の合戦で大敗した勝頼が、館を捨て、新府城に移るまで武

 

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