東光院

笠寺観音の宿坊として創立し、本尊の不動明王は紀州熊野新宮の本尊であったものが伝来、厄除満願不動として信仰されています。豊臣秀吉より授かった天満宮(笠寺天満宮)の一堂もあり、お酒をお供えると顔面が赤くなるとの言い伝えから、出世神酒天神として信仰され、尾張徳川家も代々葵の紋のお札などを寄付していました。

宮本武蔵が逗留して自画像を残した寺

東光院の本堂
授与品の勝運守

東光院は、笠覆寺十二坊のひとつで、現在は、学問の神様としても信仰を集めています。
宮本武蔵も御三家筆頭の尾張藩に仕官しようと一時東光院に滞在しています。

武蔵が諸国行脚に出かけた1630(寛永7)年頃のことと推測され、東光院には武蔵が左右両腕で書き分けた『自筆南無天満天神書幅』(「南無」、「天神」を右手、「天満大自在」を左手で書き分けています)や『自画像条幅』、武蔵が二刀流の左手用に削ったとされる『自作木刀』が宝物として残されています。

宮本武蔵には観音信仰があり、笠寺観音に参詣し、その宿坊に逗留して仕官に挑戦したと考えられるのです。

明治期の『尾参宝鑑』には3年間、名古屋に滞在したことになっていますが残念ながら史料など歴史的な裏付けはありません。

宮本武蔵が二天一流創始以前に開いた武術流派に円明流(二刀流)がありますが、尾張藩にはその流派が伝わっています。
尾張を去った武蔵は、尾張藩士・寺尾直正に請われて、義子・竹村与右衛門を代役に尾張に派遣し、竹村は円明流を尾張国に広めたのです。
林資源・林資竜親子や彦坂八兵衛といった弟子に免状を与えています。

また笠寺観音(笠覆寺)には、宮本武蔵の百年忌にあたる1744(延享元)年に左右田邦正が建立した顕彰碑(碑の正面には「新免武蔵守玄信之碑」という文字が刻まれています)があるので、あながち伝承とは言い切れません。
ちなみに左右田邦正は、彦坂八兵衛の孫弟子に当たります。

地元の伝承では、桜台高校東の八幡社(桜田八幡社)の下あたりに武蔵は道場を構えたと伝わりますが、こちらも定かでありません。

東光院
名称 東光院/とうこういん
所在地 愛知県名古屋市南区笠寺町上新町47
電車・バスで 名鉄名古屋本線本笠寺駅から徒歩10分
ドライブで 名古屋高速大高線笠寺ランプから約1km
駐車場 3台/無料
問い合わせ 東光院 TEL:052-821-4288
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

笠寺観音

2017年3月12日

 

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