愛知県新城市有海稲場にある曹洞宗の寺、新昌寺。境内には長篠の合戦で非業の死を遂げた鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の墓があります。武田軍が包囲する長篠城から脱出し岡崎城へと援軍を要請に走り、その帰路、武田軍に見つかり磔死(たくし)したのが鳥居強右衛門です。
「三河武士の鑑」と伝わる鳥居強右衛門の墓
「援軍は来ない。諦めて城を開け」と叫べば助命すると武田軍から嘘を伝えるように強要されますが、鳥居強右衛門は承諾するように見せかけながら「あと二、三日で、数万の大軍が救援にやってくる。それまで持ち堪えよ」と籠城軍に知らせ、磔死。
この英雄的な行動で、籠城した500余の将兵はなんとか織田・徳川連合軍の到着まで持ちこたえ、戦局は一気に織田・徳川方へと傾いたのです。
この鳥居強右衛門の行動は、後世に「三河武士の鑑」として伝えられ、今も長篠の戦いを描く大河ドラマなどのハイライトシーンのひとつになっているのです。
奥平信昌(おくだいらのぶまさ=長篠の戦い当時は奥平貞昌で、長篠の戦いで武田勝頼に離反、貞昌は長篠城に籠城し、鳥居強右衛門に命じて岡崎城に援軍を要請)の家臣だった鳥居強右衛門は、籠城する長篠城から眼下にする有海原の篠場野で磔(はりつけ)となりますが、墓は同じ有明村(現・新城市有海)の新昌寺に。
新東名高速道路の建設で移転した墓は新しい土台の立派なもの。
墓石には、「わが君の命に替る玉の緒をなどいといけん武士の道」 という辞世の句が記されています。
亡骸は慶長8年(1603年)、奥平氏により作手(新城市作手鴨ケ谷)の甘泉寺に移され、甘泉寺にも墓があります(一説には織田信長が作手に建立したとも)。
作手村市場郷は鳥居強右衛門の妻の出身地です。
新昌寺に墓が建立されたのは、宝暦13年(1763年)のこと。
なお、鳥居強右衛門の子孫は忍藩(現・埼玉県)・奥平松平家(奥平信昌の四男、松平忠明が祖)の家老として存続しています。
新昌寺・鳥居強右衛門の墓 | |
名称 | 新昌寺・鳥居強右衛門の墓/しんしょうじ・とりいすねえもんのはか |
所在地 | 愛知県新城市有海稲場2 |
関連HP | 新昌寺公式ホームページ |
電車・バスで | JR鳥居駅から徒歩5分 |
ドライブで | 新東名高速道路新城ICから約3.5km |
駐車場 | 長篠城址駐車場(50台/無料)を利用 |
問い合わせ | 新昌寺 TEL:0536-25-0553 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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