法蔵寺

法蔵寺

愛知県岡崎市本宿町にある浄土宗の寺、法蔵寺(ほうぞうじ)。寺伝によれば大宝元年(701年)、行基によって法相宗の二村山出生寺として開山という古刹。松平家の菩提寺で、徳川家康も竹千代時代にこの寺で学んでいます。近藤勇の首を葬ったと伝わる「近藤勇の首塚」、東照宮などまさに徳川ゆかりの寺。

徳川家康幼少の落書きも現存

法蔵寺
松平一族と合戦討死者の墓

寺伝によれば、平安時代、空海の来訪により真言宗となり、至徳2年(1385年)、教空龍芸が浄土宗の法蔵寺としています。
松平氏・徳川氏の始祖という松平親氏(まつだいらちかうじ=松平家墓所は豊田市の高月院に)が帰依し、嘉慶元年(1387年)頃、伽藍建立(ただし松平親氏は生年、没年とも不詳)、松平家代々の菩提寺としています。

天文16年(1547年)、徳川家康は竹千代と名乗った8歳の頃、叔父にあたる7世住職・教翁上人に就いてこの寺で読み書きなど勉学に励んでいます。
それが証拠に天文18年正月(1548年)に竹千代が記した書き初め「松 竹 千代 八才」や竹千代の勉強した机「御文台」や「竹千代」と書かれた落書きも現存。

桶狭間の戦いの直後に松平元康(後の徳川家康)が出した「守護不入の定」(三河守護が独自に課す夫役・段銭などの免除)、三方ヶ原の戦いで家康が受難したと伝わる矢も残され、山門前の御草紙掛松(おんそうしかけのまつ)は、竹千代が植え、手習いの草紙を掛けたという松。
残念ながら松は4代目ですが、それを囲う石柵は、文化12年(1815年)、旗本・木造清左衛門俊往の寄進。

まさに徳川家康ゆかりの寺で、江戸時代には、法蔵寺前の東海道では下馬して通る必要があったというのも頷けます。
文政9年(1826年)には江戸参府途中のシーボルトも立ち寄り、ちょうど花咲く初夏(旧暦3月下旬)ということもあり、裏山で植物採集を行なっています。

このほか、松平泰親(松平家2代)、家康の父・松平広忠、亀姫(加納御前=家康の長女)などを祀った松平家の霊廟、近藤勇(こんどういさみ)の首を葬った「首塚」、東照宮などがあります。
三河三十三観音第十二番札所。

近藤勇の首塚

法蔵寺
近藤勇の首塚

慶応4年4月25日(1868年5月17日)、江戸の板橋刑場で斬首された近藤勇の首は、塩漬けにされて京の三条河原で梟首(きょうしゅ=晒し首)に。
しかし、3日後には首は隊士の一人に持ち去られその後の首の行方はわかっていません。

首は近藤勇の生前慕っていた新京極裏寺町の称空義天に届けられ、称空義天が直前に法蔵寺の住職となっていたため、最終的に法蔵寺に埋葬されたのですが、明治維新を迎え、その存在は秘密とされていたのです。

昭和33年、宝蔵寺の本山、誓願寺で近藤の首の顛末が記された史料が発見され、法蔵寺で調査が行なわれた結果、新撰組の土方歳三、土方歳三と行動を共にした伝習隊員の名が刻まれた台座、つまりは首塚と思われるものが発掘されています。

首を三条河原から奪取したのは斎藤一と伝えられますが、当時、斎藤一は東北列藩同盟・会津軍に従軍中、台座に刻まれる土方歳三ら伝習隊も宇都宮などで官軍と交戦中なので、ここで墓石を築けるわけがないのです(誰かに託したという可能性はありますが・・・)。

法蔵寺
名称 法蔵寺/ほうぞうじ
所在地 愛知県岡崎市本宿町寺山1
関連HP 岡崎市観光協会公式ホームページ
電車・バスで 名鉄本宿駅から徒歩10分
ドライブで 東名高速道路岡崎ICから約10km
駐車場 30台/無料
問い合わせ 法蔵寺 TEL:0564-48-2636
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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