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名古屋城・西北隅櫓

名古屋城・西北隅櫓

愛知県名古屋市中区の特別史跡に指定される名古屋城・御深井丸(おふけまる)のにある櫓(やぐら)のひとつが、北西隅櫓。名古屋城の本丸を守る4つの隅櫓のひとつで、元和5年1619年)頃の築で、国の重要文化財に指定。外堀の北、堀川側の公道がベストショットポイントです。

全国で2番目の大きさを誇る三重櫓

外堀越しに眺める西北隅櫓
名古屋城本丸空撮MAP

本丸の本丸御殿と天守を守る4ヶ所の隅櫓のうち、北東隅櫓の丑寅隅櫓(うしとらすみやぐら)は名古屋空襲で焼失していますが、東南隅櫓、西南隅櫓は往時のままに現存し、国の重要文化財に指定。
本丸の北西、御深井丸(おふけまる)の北西角を守備する隅櫓が、西北隅櫓で、戌亥隅櫓(いぬいすみやぐら/戌亥=北西)とも呼ばれています。

外観3重、内部3階の構造で、大きさは東西13.9m、南北16.9m、高さ16.2mで、現存する三重櫓としては、熊本城の宇土櫓(宇土櫓/現存12天守と比較しても、姫路城、松本城、松江城に次いで4番目の高さ)に次いで、全国で2番目の大きさを誇ります。
まさに天守並みの大きさを誇っており(現存天守の弘前城天守、丸亀城天守はもともとは代用天守の三重櫓)、御三家筆頭・尾張徳川家の威厳を示しています。

入母屋造(いりもやづくり)、平瓦と丸瓦を組み合わせた本瓦葺き(ほんかわらぶき)。
外堀に面した北面と西面に敵を攻撃するための石落しが配されるという実戦的な構造。
各面には千鳥破風(ちどりはふ=装飾のために用いられる三角形の破風)が設けられています。

慶長20年(1615年)に本丸御殿が完成しているので、元和5年(1619年)、本丸周辺の最期の防備として完成したもの。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家が滅んでいるので、それ以降、安定した徳川の治世になってからの完成ということに。

解体修理の結果、柱を中心に転用材が多く認めら、高欄を伴う櫓状の建築の部材を再利用したものらしく、清洲城の小天守を移築したものとの伝承を裏付けています。
そのため清洲櫓の名がありますが、清洲から名古屋への城と城下町の大移転「清洲越し」を今に伝える遺構ということに。

元和2年(1616年)、尾張藩主・徳川義直(とくがわよしなお=徳川家康の九男)は、駿府城から名古屋城に移って本丸御殿を居所とします(入城時は、弱冠15歳)。
元和3年(1617年)には二之丸御殿が完成し、元和6年(1620年)、徳川義直が住居兼政庁としての機能を本丸御殿から二之丸御殿へ移しているので、西北隅櫓の完成と、二之丸御殿への政庁移管で、近世的な名古屋城の完成といえるでしょう(天守がすでに機能を失い、本丸御殿は、将軍上洛時の迎賓館に)。

名古屋城・西北隅櫓
名称 名古屋城・西北隅櫓/なごやじょう・せいほくすみやぐら
所在地 愛知県名古屋市中区本丸1-1
関連HP 名古屋城公式ホームページ
電車・バスで 名古屋市営地下鉄名古屋城駅から徒歩5分
駐車場 正門前駐車場(319台/有料)、二之丸東駐車場(202台/有料)
問い合わせ 名古屋城総合事務所 TEL:052-231-1700
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

名古屋城

1612(慶長17)年築城の名古屋城は、明治時代まで約250年間、徳川御三家の筆頭尾張家の居城。現在、名古屋城の城跡は名城公園として整備されています。金の鯱(しゃちほこ)で知られる大天守閣は戦災で焼失し、昭和34年に再建されたもの。江戸城、

名古屋城 二之丸庭園

名古屋城の二之丸庭園は、尾張藩の初代藩主、徳川義直が築いた庭園で、元和年間(1615年〜1623年)に二之丸御殿の造営にともない御殿の北側に聖堂(金声玉振閣)を中心として作庭された大名庭園です。御三家筆頭の尾張藩の大名庭園は、江戸の藩邸の庭

名古屋城・清正石

愛知県名古屋市中区、名古屋城の本丸東二之門を入った正面にある八畳敷という巨石が、清正石。天下普請(てんかぶしん)で名古屋城を築城する際、築城の名手である加藤清正が運んだ石と伝えられることから清正石のながあります。ただしこの場所の石垣を担当し

名古屋城・清正公石曳きの像

愛知県名古屋市中区、名古屋城の東南隅櫓を眺める梅園近くに立つのが、清正公石曳きの像(きよまさこういしひきのぞう)。加藤清正は、関ヶ原の合戦後、徳川家康に接近し、慶長15年(1610年)の名古屋城の天下普請(てんかぶしん)に協力、石垣工事で大

名古屋城・東南隅櫓

愛知県名古屋市中区の特別史跡に指定される名古屋城・本丸にある櫓(やぐら)のひとつが、東南隅櫓。藩政時代に本丸に3ヶ所あった隅櫓のうち、北東隅櫓の丑寅隅櫓(うしとらすみやぐら)は名古屋空襲で焼失していますが、東南隅櫓、西南隅櫓は往時のままに現

名古屋城・本丸表二之門

愛知県名古屋市中区、国の特別史跡で、日本三名城にも数えられる名古屋城の本丸大手、南正門となるのが本丸表二之門。貫(ぬき)部分に元和5年(1619年)の墨書があり、清州城・小天守の移築との伝承がある西北隅櫓完成と同じ年ということに。戦災を免れ

名古屋城・本丸東一之門跡

愛知県名古屋市中区、国の特別史跡、そして日本三名城にも数えられる名古屋城。本丸の東側、搦手(からめて=裏口)にあたるの門の跡が、本丸東一之門跡。外側の東二之門とともに枡形門を形成していていましたが、昭和20年の空襲で、天守、本丸御殿などとと

名古屋城・二之丸大手二之門

愛知県名古屋市中区、国の特別史跡に指定される御三家・筆頭、尾張藩の藩庁だったのが名古屋城。元和3年(1617年)に完成した藩主の居館で、尾張藩の藩庁となった二之丸御殿が建つ、二之丸の大手(玄関口)を守備する外門が二之丸大手二之門(西鉄御門)

名古屋城・本丸表一之門跡

愛知県名古屋市中区、国の特別史跡に指定される御三家・筆頭、尾張藩の藩庁だったのが名古屋城。本丸の大手(正門)にあたる枡形門が、本丸表二之門と本丸表一之門。表二之門は現存していますが(国の重要文化財)、表二之門をくぐった先は、本丸表一之門跡と

名古屋城・旧二之丸東二之門

愛知県名古屋市中区、国の特別史跡に指定される名古屋城。本丸の東に位置する搦手(からめて=裏門)にあたる枡形門が、本丸東一之門(内門)・東二之門(外門)。本丸東二之門部分に移築されているのが旧二之丸東二之門で、もともとは二之丸の東面中央に設け

名城公園

愛知県名古屋市中区・北区の名古屋城の城址公園が、名城公園。76.2haという広大な都市公園で、明治初年には名古屋鎮台、明治26年〜昭和5年は宮内省の名古屋離宮だった地で、昭和5年に名古屋離宮が廃され、名古屋市に下賜され、昭和6年に公園となっ

清洲城

中世に尾張国守護所があり尾張の中心地だった清須(清洲)。1555(弘治元)年に織田信長が那古野城(なごやじょう=名古屋城の前身)から入城し、この清須を拠点に尾張統一を果たし、天下布武への足がかりを築きました。今川義元を討った桶狭間(おけはざ

熊本城・宇土櫓

西南戦争時に焼失を免れ、平成28年4月14日に発生した熊本地震でもさほど大きな被害を出すことなく、往時のままに現存する熊本城の建造物でもっとも大規模な櫓で、日本最大の三重櫓が宇土櫓(うとやぐら=平左衛門丸五階櫓)。本丸北西角にある3層5階の

名古屋城・不明門

愛知県名古屋市中区、国の特別史跡に指定される名古屋城。本丸の天守横、天守台脇に設置されたエレベータの横から北側に抜ける場所に位置する門が、不明門(ふめいのもん)。「常に鎖して開かず」から不明門(あけずもん)という意味で、本丸御殿の大奥へ通じ

名古屋城・御殿椿

愛知県名古屋市中区、尾張藩の藩庁となった名古屋城。本丸御殿の北、天守の東にある不明門の横に植栽されるのが、御殿椿。八重大輪の椿で、もともとは、本丸御殿南庭にあった尾張藩秘蔵の銘椿の「御殿椿」で、接ぎ木されて育った椿が今も花を咲かせています。

名古屋城・天守礎石

愛知県名古屋市中区、名古屋城の本丸・天守横の不明門(ふめいもん)から北に歩いた、御深井丸(おふけまる)エリアにあるのが、天守礎石。昭和20年5月14日の名古屋大空襲で、名古屋城天守は焼失。天守台にあった天守礎石は、昭和34年の天守再建の際に

名古屋城・乃木倉庫

愛知県名古屋市中区、名古屋城本丸の北西、御深井丸(おふけまる)にある明治初期に名古屋城に駐留した日本陸軍の弾薬庫が、乃木倉庫(のぎそうこ)。歩兵第六連隊弾薬庫だとされるレンガ造りの倉庫で、国の登録有形文化財に指定されています。名古屋城本丸御

全国に現存する三重櫓 12基

天守がない城や、天守が焼失し再建されなかった城では代用天守としても機能し、天守があった城でも、防備の拠点として重要な役割を担った櫓(やぐら)が、三重櫓。国内に数ある城郭の中で、往時の三重櫓は12基が現存、奇しくも現存12天守と同じ数です。弘

 

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