愛知県新城市富岡、国道301号と宇利川の間にあるのが、森の石松生家跡。侠客としてその名を知られる森の石松の出生地は、三州半原村(現・新城市富岡)とも遠州森町村(現・静岡県周智郡森町)ともいわれ定かでありませんが、三州半原村説では生家跡とされる空き地が現存しています。
本当は「三州の石松」が正しい!?
現在の森の石松のイメージは、清水次郎長の養子・天田五郎の聞き書きによって出版された『東海遊侠伝』(明治17年)によるところが多く、同じく次郎長配下の隻眼の豚松と混同していたともいわれ、現在では実在性すら疑う人もいるほど。
三州半原村説によると、石松は代々山本荘五郎を名乗り庄屋を務めた家柄の家に次男として生まれましたが(ルーツは信州・諏訪藩の藩士)、石松が3歳の時、自宅が火災を出したことが原因で没落し、幼い石松を連れて遠州森へ流れ(遠州森の山中で炭焼きで自活)、天宮神社の祭礼の日に迷子になって、森の五郎に引き取られたということに。
近くの洞雲寺には、森の石松の墓もあります。
本来は、「三州の石松」だったのが、大正時代に浪曲師と小説家が「森の石松」という人物像に作り変えてしまったというのが、三州半原村説を唱える人の考えですが、森町の大洞院に石松の墓が築かれているのも昭和10年、森の石松を扱った浪曲が2代目・広沢虎造(ひろさわとらぞう)によってラジオ放送されて大ブームになってからなので、かなり説得力のある説になっています。
実際に、生誕の地・富岡に伝わる「三州の石松」伝承は、かなり具体的で(体格のよい大男、隻眼ではなかった、弟の佐与吉が石松の首だけを持ち帰り、洞雲寺に埋葬しようとした際にも村人は大反対など)、やくざ者として評価も低く、没しても葬式はもちろん、戒名、仏塔もなく、石松での町おこしもはばかられるほど嫌われてきたとのこと(地元・富岡の「八名の歴史を学ぶ会」の資料を参考にしています)。
八名郷土史会は、「八名の歴史を学ぶ会」を開催し、「三州の石松」に関しても精力的に情報を収集、整理しており、信憑性は高く、石松像のほとんどが後世の作であることがよくわかります。
森の石松生家跡 | |
名称 | 森の石松生家跡/もりのいしまつせいかあと |
所在地 | 愛知県新城市富岡堀切平 |
関連HP | 奥三河観光協議会公式ホームページ |
ドライブで | 東名高速道路豊川IC、新東名高速道路新城ICから約11km |
問い合わせ | 新城市観光協会 TEL:0536-29-0829 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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