愛知県新城市富岡にある真言宗御室派の寺が、洞雲寺。境内にある自然石の墓が、森の石松の墓と伝承されています。森の石松は、現在の新城市富岡出身というのが三州半原村説で、「三州の石松」に関する伝承もかなり詳細に残されているため、この寺が菩提寺である可能性も大。
文久2年(1862年)に築かれたと伝わる自然石の墓
新城市の八名郷土史会が収集する地元に残る「三州の石松」伝承によれば、体格のよい大男、隻眼ではなかったなどなど、森の石松として描かれた像の多くが虚像であることがわかります。
現在の森の石松のイメージは、清水次郎長の養子・天田五郎の聞き書きによって出版された『東海遊侠伝』(明治17年)によるところが多く、同じく次郎長配下の隻眼の豚松と混同していたともいわれていますが、出生地とされる富岡に残される伝承もそれを裏付けています。
森の石松の墓として有名なのは、静岡県周智郡森町の大洞院ですが、墓が建立されたのは昭和10年のこと。
生誕地三州半原村説を唱える八名郷土史会の研究では、大正時代に浪曲師と小説家が「森の石松」という人物像に作り変えてしまったという主張ですが、2代目・広沢虎造(ひろさわとらぞう)の浪曲(「呑みねえ食いねえ」、「神田の生まれよ」、「馬鹿は死ななきゃなおらない」などの石松の名セリフが誕生/『森の石松(三十石道中)』)がラジオ放送(大正15年5月30日、『次郎長と勝蔵』ラジオ初放送)がヒットしていた昭和10年に大洞院に墓が建立されたこともその裏付けともなっているのです。
生誕の地とされる洞雲寺の墓は、自然石。
文久2年(1862年)、弟の佐与吉が石松の首を持ち帰り、洞雲寺に埋葬しようとしたところ、ヤクザ者ということで村での評判が悪く、村人は大反対。
葬儀ができず、首を入れた甕(かめ)だけを埋め、その上に自然石を置いたと伝えられているのです。
実際、昭和54年頃、墓所の修復を行なった際に、首が入るほどの大きさの甕が出土し、そのまま埋め戻したのだとか。
洞雲寺境内には、もともとは庄屋だったという石松の生家・山本庄次郎家代々の墓もありますが、過去帳にも石松の名はなく、森の石松の生家跡と自然石の墓石だけが名残りとなっています。
洞雲寺(森の石松の墓) | |
名称 | 洞雲寺(森の石松の墓) |
所在地 | 新城市富岡字半原田60 |
関連HP | 奥三河観光協議会公式ホームページ |
ドライブで | 新東名高速道路新城ICから約11km、東名高速道路豊川ICから約12km |
駐車場 | 50台/無料 |
問い合わせ | 洞雲寺 TEL:0536-26-0061 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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