【完全攻略ガイド】小牧山城

小牧山城

愛知県小牧市、濃尾平野にある独立した峰の小牧山(標高86m)に築かれた山城が、小牧山城(こまきやまじょう)。清州城を居城とする織田信長が、美濃攻略を狙い、山上に山城を築いたのが始まり。近年の調査で、石垣が構築されていたこと、山麓に信長の居館があったことも判明しています。

織田信長が、美濃攻略の拠点として築城

小牧山城
メインと登城路・大手道(大手口から徒歩20分で主郭)

永禄3年5月19日(1560年6月12日)、駿河・遠州・三河の広域を支配する今川義元を桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で撃破し、今川氏を滅ぼした織田信長は、永禄5年(1562年)、今川家の人質から解放され三河・岡崎城に戻った松平家康(徳川家康)と清洲同盟を締結。

三河の家康と同盟関係となったことで、東への脅威が減少した信長は、上洛の過程で重要な、美濃攻略を目的に、丹羽長秀(にわながひで=織田家の宿老)を奉行に小牧山に城を築きます。
永禄6年(1563年)、織田信長は軍の主力を小牧山城に移していますが、この本拠移転には家臣の反対があったため、二ノ宮山(現・犬山市)に本拠を移すことを匂わせ、小牧山への移転に同意させたと伝えられています。

平成16年の発掘調査で山上の城郭を囲う壮大な石垣が発見され、これまで安土城が近世的な石垣の始まりともいわれていましたが、すでに信長は小牧山城に構築していたことが明らかになっています。

さらに平成17年度の調査では、山側と谷側に石積みを構築し、道の脇に幅20cmの排水溝を整備した永禄年間(1558年〜1570年)の大手道が出土し、これまでは安土城が初とされたこうした大規模な大手道の存在も、小牧山城がその先例だったことも判明し、小牧山城の重要性が高まっています。

愛知県瀬戸市の名刹・定光寺(じょうこうじ)に伝わる『定光寺年代記』には、小牧山城を信長は「火車輪城」と称したと記されていますが、それは石垣の周りに松明を焚き、ぐるりと城を取り巻いてライトアップしたことからだと推測されています。

小牧山城が築城の過程では、美濃の敵対勢力が妨害する可能性もあり、このライトアップ効果で、威圧したのかもしれません。

この小牧山城を本拠に、織田信長は波状的に美濃の攻略を行ないますが、永禄10年8月15日(1567年9月17日)、美濃斎藤氏の本拠地・稲葉山城を手中に収めたことで、あっさりと小牧山城を放棄、拠点を稲葉山城に移しています。

稲葉山城のある金華山は、濃尾平野の扇の要的な場所に位置し、小牧山城よりも守りやすく攻めづらい城だと判断したのです。
稲葉山城下を岐阜と改め、天下布武を旗印に、いよいよ諸国統一に乗り出すことに。

信長にとってはわずか4年間の居城だった小牧山城ですが、後の岐阜城、安土城にも通じる、大手道、石垣などの手法が、すでに小牧山城で試されているので、信長にとっては重要な出発点だったことがわかります。
城だけでなく城下町の機能をすべて岐阜に移したことで、城下町風情はあまり残されていません。

小牧山城
織田信長時代の石垣が出土

小牧・長久手の戦いでは家康の本陣に

小牧山城
大手口に築かれた土塁が現存

織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれ、その光秀も羽柴秀吉に倒された後に、徳川家康と羽柴秀吉の勢力争いが勃発します。
形式上は、信長の後継者争いで、織田信雄(おだのぶかつ=織田信長の次男)を担ぐ家康と、清須会議で三法師(織田秀信=織田信長の孫)を織田家当主とすることを確認した秀吉との直接対立です。

天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康は、濃尾平野の小牧山城周辺と長久手(現・愛知県長久手市)が戦場となった小牧・長久手の戦いが勃発。

秀吉軍が犬山城を占領したのに、家康軍は廃城となっていた小牧山に陣取り、砦や土塁を構築。
岐阜をへて犬山に陣取る羽柴秀吉と対峙することになりました。
両軍が用意周到に周囲に砦などを構築したため、戦況は膠着し、岩崎城(愛知県日進市)、長久手、蟹江城(愛知県海部郡蟹江町)など周囲で合戦が展開され、家康は秀吉との講和、臣従を選択し、小牧山城もこぜりあいはあっても、主戦場とはなっていません。

江戸時代後期の歴史家・思想家の頼山陽(らいさんよう)は『日本外史』に「家康公の天下を取るは大坂にあらて関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」と記しているので、廃城だった小牧山城を山城といえるほどに復活させ、そこに陣取った家康の叡智を称えています。

信長が重臣たちの反対を押し切ってまで拠点を小牧山に移したことが天下取りに繋がったということ、小牧・長久手の戦いで、家康が実質的な勝利を収めたことからも、戦国時代における小牧山城の重要性がよくわかります。

信長、秀吉に天下取りの道が開けたのは、肥沃な濃尾平野が地盤だったから。
その中央にそびえる小牧山。
その重要性に目をつけたのが、信長と家康です。

小牧山城
戦国時代の土塁

山麓には織田信長の居館跡と推測の曲輪も

小牧山城
小牧山城地図

江戸時代になると小牧山は神君・家康ゆかりの地として、尾張藩が立入禁止にしています。
そのために、結果的に開発を免れ、平成になってからの発見につながっています。

山頂には昭和43年、天守風の小牧市歴史館が建てられましたが、その建設時に土台の遺構を壊しているため、戦国時代にどんな建物があったのかは謎に包まれることに。

発掘された石垣なども保護を目的に大部分は埋め戻され、残念ながら見学することができません。
小牧市歴史館の土台部分に、織田信長の築城時の石垣を再現しています。
小牧山はチャートでできていますが、石垣に用いられた石は、最大で2tもの重量がある花崗岩もあり、3kmほど離れた岩崎山から運ばれたと推測されています。

一部に矢穴がある石も見つかっていますが、近世に天下普請で名古屋城を構築する際に、転用しようと試みた痕跡だと推測されています(実際に名古屋城に転用された石もあるのかもしれません)。

小牧山の南東麓にある曲輪(曲輪402)は、75m四方の大きさがあるため、信長の居館だったのではとも推測されています(山上と山麓の2ヶ所に居館を設置)。
かつては中学校の運動場があり、その際に削平されているため、建物の遺構は失われています。
幅3m、深さ2mという深い堀り込みの跡があり、土塁に囲まれていたことも判明、山麓で最大規模の曲輪ということで、織田信長の居館があった可能性もあるということに(同様に岐阜城でも山麓に居館が設けられています)。
ひょっとすると、家康も本陣をここに構えていたのかもしれません。

小牧山移転に反対した重臣たちの屋敷も、大手道の両側と、山麓の居館の2ヶ所構えていますが、山麓の居館も、信長の居館があったと推測される曲輪側には土塁がなく、主君からは容易に攻められる構造になっていて、戦国時代の主従関係がよくわかります。

山麓には小牧山城史跡情報館「れきしるこまき」があり、小牧山城の歴史と、最新の研究成果が展示されています。
大手道コース(小牧山城の正面ルート)、搦手(からめて=裏)側から登城する搦手道コース(五段坂と呼ばれるジグザグの坂道)、自然満喫コース(石垣用の石を採集したとみられる採石場を通ります)など、散策の拠点になっているので、まずはお立ち寄りを。

小牧山城
小牧市歴史館の土台部分に、織田信長の築城時の石垣を再現
【完全攻略ガイド】小牧山城
名称小牧山城/こまきやまじょう
所在地愛知県小牧市堀の内1-1
関連HP小牧市公式ホームページ
電車・バスで名鉄小牧線小牧駅から徒歩25分。または、名鉄バス・小牧巡回バスで小牧市役所前下車、徒歩10分
ドライブで東名高速道路小牧ICから約2km
駐車場小牧山北駐車場(50台/2時間まで無料、以降有料)
問い合わせ教育委員会事務局小牧山課史跡係 TEL:0568-76-1623/FAX:0568-75-8283
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

史跡小牧山

濃尾平野の東部にある標高85.9mの独立峰が小牧山。織田信長は1563(永禄6)年に小牧山城を築城し、清洲から居城を移していますが、4年後に美濃の斎藤道三(さいとうどうざん=斎藤龍興)を攻略して稲葉山城(岐阜)へ移り、短い間で小牧山城は廃城

小牧市歴史館(小牧山城)

織田信長は、1562(永禄5)年に徳川家康と清洲城(清須城)で清洲同盟を結ぶと、いよいよ濃尾平野の制覇、美濃攻略の拠点として1563(永禄6)年、濃尾平野を見渡す小牧山(こまきやま)に城を築いています。小牧山城の構造は、山全体(約21ha)

【完全攻略ガイド】国宝犬山城

姫路城、彦根城、松本城、松江城と並ぶ国宝の天守が犬山城。天文6年(1537年)、鵜沼を対岸に木曽川を眼下にする要衝に織田信康(おだのぶやす/織田信長の叔父)が築いた平山城。天守も用材の科学的な年代測定から戦国時代の建築と判明、現存する「日本

岩崎山砦跡(岩崎熊野神社)

岩崎山砦跡(岩崎熊野神社)

愛知県小牧市にある標高54.6mの丘が岩崎山。小牧・長久手の戦いの際に、羽柴秀吉軍が砦を築き、美濃国の稲葉一鉄と貞通親子が4000の兵を率いて布陣した岩崎山砦跡。頂からは徳川軍が布陣した小牧山を一望に。岩崎熊野神社が鎮座し、神社境内にある花

清洲城

中世に尾張国守護所があり尾張の中心地だった清須(清洲)。1555(弘治元)年に織田信長が那古野城(なごやじょう=名古屋城の前身)から入城し、この清須を拠点に尾張統一を果たし、天下布武への足がかりを築きました。今川義元を討った桶狭間(おけはざ

岐阜城

岐阜(ぎふ)の市街を見下ろす金華山(329m)の山頂に建つ山城。かつては斎藤道三の居城・稲葉山城でしたが、1567(永禄10)年、織田信長は小牧山城(愛知県小牧市)から本拠を移し、新たに山城を築城して岐阜城と改名しました。織田信長は、岐阜城

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