飫肥城
飫肥院の跡とも伝わる飫肥城(おびじょう)はいつ頃の築城は定かではないが、1587(天正15)年に豊臣秀吉に仕えた伊東祐兵(いとうすけたけ)が九州征伐の戦で戦功を認められ秀吉から賜り、以降280年あまり飫肥藩伊東氏5万10…
飫肥院の跡とも伝わる飫肥城(おびじょう)はいつ頃の築城は定かではないが、1587(天正15)年に豊臣秀吉に仕えた伊東祐兵(いとうすけたけ)が九州征伐の戦で戦功を認められ秀吉から賜り、以降280年あまり飫肥藩伊東氏5万10…
1571年(元亀2年)、織田信長の有名な「比叡山焼き討ち」の後、明智光秀には近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市一帯)が与えられ、信長の命により、坂本に城が築かれました。比叡山延暦寺と京への出入りを監視するという重要な意味が…
本能寺の変後の1586(天正14)年、豊臣秀吉は明智光秀の拠点、坂本城を廃城とし、浅野長政に命じて大津城を築城。1595(文禄4)年には、京極高次が城主となっています。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで京極高次は東軍に…
膳所城(ぜぜじょう)は、徳川家康が関ヶ原の合戦の翌年1601(慶長6)年に、築城の名手といわれる藤堂高虎(とうどうたかとら)に命じて築いた城。大津市の市街地に本丸跡が膳所城跡公園として整備され、周辺には城下町の風情も残さ…
金沢城の石川門は高麗門の一の門、櫓門の二の門、続櫓と2層2階建ての石川櫓で構成され、その全体が石川門。現存する門は、1759(宝暦9)年の大火によって全焼した後、1788(天明8)年、10代藩主・前田治脩(まえだはるなが…
加賀百万石のシンボル、金沢城は、1583(天正11)年に前田利家により本格的な築城が開始。三十間長屋は、現存する数少ない遺構で国の重要文化財。石川門とともに現存する藩政時代の数少ない建築物のひとつとなっています。三十間長…
1600(慶長5)年、関ヶ原の戦い後に出雲(いずも=島根県)から岩国に移封された毛利一門の吉川広家(きっかわひろいえ=吉川元春の子)。周防国(すおうのくに)岩国に赴任した後から横山山頂に築城を始め、1608(慶長13)年…
大王崎の西側一帯が八幡さん公園。地元で「八幡さん」と呼ばれる八幡社が建っているのが名の由来。八幡社は海上安全にご利益があり、地元の漁民などから信仰を集めますが、この八幡社周辺は日の出、夕景の国内有数の人気撮影ポイント。「…
高松藩の政庁だった高松城。本丸、二の丸、三の丸周辺は玉藻公園(有料公園)として整備されています。高松城の大手門は現存しておらず、現在は玉藻公園のJR高松駅・ことでん高松築港駅に近い西入口と、玉藻公園駐車場側の東入口から登…
日本100名城に選定される丸亀城の城跡公園が亀山公園。現存12天守の中でもっともミニサイズの天守が、日本一高いといわれる石垣群の上にそびえたっています。山麓から山頂まで、4層になる石垣は、総高60mにも及びます。正面玄関…
今治城(愛媛県今治市)、中津城(大分県中津市) と並んで日本三大水城に数えられる高松城。埋め立てや市街化が進んではいますが、今も内堀は海とつながり、水門で水位が管理されています。そんな内堀を和船で遊覧するのが「玉藻丸」で…
玉藻公園は、玉藻城とも呼ばれる高松城の城跡。高松城は1588(天正16)年、豊臣秀吉の重臣・生駒親正(いこまちかまさ)の築城以来、生駒4代、松平11代にわたって歴代高松藩主の居城となった城。現存する遺構は、1642(寛永…
高松城の二の丸と本丸を結び、内堀に架かる橋が鞘橋(さやばし)。本丸への唯一の登城ルートになっています。現在の橋は切妻造りの屋根で銅板葺き、そして切目のない腰板の付いた珍しい木橋で、明治17年に建て替えられたもの。さらに昭…
二の丸から鞘橋(さやばし)を渡ると本丸です。本丸虎口を経て本丸へと入る構造になっています。本丸には東端に天守、北面に中川櫓と呼ばれる櫓門と中櫓、北西隅には矩櫓(かねのやぐら)、南西隅には地久櫓(ちきゅうやぐら)が建ち、こ…
高松城の三の丸には現在、大正時代に建てられた披雲閣があります。生駒時代から松平時代の初期にかけては倉庫が数棟建てられていましたが、1700(元禄13)年に二の丸にあった御殿が廃され、御殿(旧披雲閣)が建てられ、藩政の中心…
JR高松駅やことでん高松築港駅に近い玉藻公園の西口を入ると高松城二の丸。江戸時代には、現在の西口あたりに西の丸からの二の丸入口となる刎橋口(はねばしぐち)と呼ばれる門がありました。三の丸側から入る鉄門(くろがねもん)が二…
内苑御庭は高松城三の丸に築かれた藩政時代の庭をもとに、大正5年頃に手を入れた枯山水の庭。大正3年〜6年に再建された披雲閣の庭園として築庭されたものです。老松の緑のなかに江戸時代の三尊石や重さ11tといわれる手水鉢や大飛石…
披雲閣はかつての高松城三の丸にあたる場所に建ち、藩政時代には藩主の住居となっていた三の丸御殿の名称。明治維新後、往時の披雲閣は老朽化を理由に取り壊されましたが、高松松平家の12代当主・松平賴寿伯爵(高松藩最後の藩主・松平…