常陸国分尼寺跡
古代の常陸国(現在の茨城県)は、大和朝廷の東方支配の前線基地的な役割を担っていたと推測されています。国分寺と同様に741(天平13)年の聖武天皇の詔によって68の国ごとに建立された国分尼寺のひとつが常陸国分尼寺。正式名を…
古代の常陸国(現在の茨城県)は、大和朝廷の東方支配の前線基地的な役割を担っていたと推測されています。国分寺と同様に741(天平13)年の聖武天皇の詔によって68の国ごとに建立された国分尼寺のひとつが常陸国分尼寺。正式名を…
奈良・平安時代に造営された常陸国筑波郡の郡衙跡(ぐんがあと)で国の史跡となっているのが平沢官衙遺跡。官衙(かんが)とは古代の官庁のことで、郡役所の正倉跡と推測されています。これまでの調査で大きな溝が囲む構内に大型の高床式…
世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」。そのひとつ、「熊野三山」の中心である熊野本宮大社は、明治22年の大水害で流出するまで、熊野川・音無川・岩田川の合流点の中洲に鎮座していました。それが大斎原(おおゆのはら)で…
和歌山市の中心部、紀ノ川河口の虎伏山(とらふすやま・標高48.9m)に建つ平山城。もとは1585(天正13)年、有力豪族・雑賀党(さいかとう=雑賀衆)を破り紀州を平定した羽柴秀吉(翌年豊臣姓に)が、弟・秀長のために藤堂高…
城の石垣などの下方をあけて門にした形式を埋門(うずみもん)と呼びますが和歌山城天守曲輪、小天守横にあった御台所の通用門が天守埋門。御台所と水の手を直結する門で、平時にはこの門を開けて水などを供給していました。水の手には黄…
日本一長大な砂嘴(さし)、野付半島を走る道道950号野付風蓮公園線(フラワーロード)。その途中、ポンニッタイ地区にあるのが会津藩士の墓。幕末の1859(安政6)年、幕府は、東北六藩に、蝦夷地の警備を命令。会津藩は北方交易…
和歌山城の表坂を上った松の丸にある石庭。もともとは、本丸曲輪にあった本丸御殿の中庭だったのですが、大正12年に本丸御殿跡に上水道施設(現・和歌山市水道局城内給水場)を設置した際に、松の丸に移設されました。1621(元和7…
和歌山城西の丸の紅葉渓庭園復元を記念して、和歌山市の名誉市民・松下幸之助が寄贈し、昭和49年5月に完成した茶室。茶道の心得がなくても気軽に立礼室で抹茶を楽しむことができます。もともとこの場所には茶室の遺構があり、そこに数…
菱形になった和歌山城本丸曲輪の東の高台にあったのが本丸御殿。元和年間(1615年〜1624年)に創建されたもので、中央に七福の庭を配していました。初代・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)と正室、14代藩主・徳川茂承(とくがわも…
大正4年4月7日、和歌山城南の丸に創立された歴史ある動物園。哺乳類を主体とする童話園と水辺の鳥が羽ばたく水禽園があり、合計100余頭羽の動物を飼育展示しています。平成27年7月には、和歌山公園動物園の100周年記念事業の…
和歌山城の二之丸背後にある台所門から本丸・天守曲輪へと至る搦手(からめて=裏側)側の登城ルートが裏坂。屈曲した石段で上ると、かつて本丸には本丸裏門がありました。坂を上ると左手に本丸御殿、右手に天守の建つ天守曲輪という構図…
和歌山城の大手門の反対側、搦手側(からめてがわ=裏側)から砂の丸に入る門。門を出て、道を隔てた反対側に馬術を練習する追廻(おいまわし)があったことが名の由来になっています。1619(元和5)年、和歌山藩初代藩主の徳川頼宣…
1619(元和5)年、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)の入城後、和歌山城の表門となった一の橋南詰に建つ大手門。創建当初は一之橋御門と呼ばれていましたが、1796(寛政8)年に大手御門と改称しています。明治42年に自然倒壊し、…
1600(慶長5)年の浅野幸長入城後、和歌山城南東の虎口(こぐち=出入口)に位置する大手門として創建。1619(元和5)年、初代和歌山藩主・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)入城とともに、峡橋を渡っての参勤交代に不便などの理由…
初代紀州藩主・徳川頼宣が和歌山城の西の丸に西の丸御殿とともに造られた日本庭園が紅葉渓庭園(西の丸庭園)で、藩主の隠居所。徳川時代以前の浅野家城主時代には庭園の一部となっている山吹谷は水堀だったとか。虎伏山山麓の起伏を生か…
和歌山藩主と側近だけが藩の政庁や藩主の居館である二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を行き来するために架けられたのが御橋廊下。屋根があり、外からは見えない構造で、二の丸側から11度の角度で下るという珍しい構造のため、滑り止めの…
国の史跡となっている和歌山城の二の丸にあるのが二の丸庭園。現在は構築物はありませんが、往時は二の丸御殿が建っていた場所。虎伏山(とらふすやま・標高48.9m)山頂の天守やその東の本丸御殿で政務を司るのは不便なので、二の丸…
近世の和歌山城天守閣は、浅野幸長が関ヶ原の戦の軍功で紀州藩主となり入城した際、1605(慶長10)年頃、下見板張りの天守が建てられたのが始まり。1846(弘化3)年の天守曲輪の雷雨で全焼し、1850(嘉永3)年に再建。幕…