ノリタケの森
ノリタケの森は、名古屋市西区則武新町のノリタケカンパニー発祥の地に建つ文化施設。明治37年、森村市左衛門らによって日本陶器合名会社が設立され、食器の生産が開始された地です。赤レンガの建物は昭和50年まで稼動していた工場で…
ノリタケの森は、名古屋市西区則武新町のノリタケカンパニー発祥の地に建つ文化施設。明治37年、森村市左衛門らによって日本陶器合名会社が設立され、食器の生産が開始された地です。赤レンガの建物は昭和50年まで稼動していた工場で…
富山の港町の東岩瀬は、かつて北前船の交易で栄えた港町。大町通り(旧北国街道)に面した北前船廻船問屋森家は、明治11年築の代表的な廻船問屋(商家)で、栄華を極めた往時の面影を残した重厚な建物。建築には3年の歳月を費やしたと…
富山は藩政時代から「越中売薬」が有名で、現在の配置家庭薬というスタイルを築きました。廣貫堂は、明治9年に薬売りの共同出資により設立され、和漢薬を中心に製造する配置薬の老舗。廣貫堂資料館は富山の薬売りの歴史と製造工程を紹介…
富山城は戦国時代に「冬の立山越え」で有名な佐々成政(さっさなりまさ)の居城だったもので、江戸時代には富山前田家の居城として、富山藩政の中心となった城。旧神通川と鼬川(いたちがわ)の合流する地の西、自然堤防の上に建っていま…
天下を取った豊臣秀吉が祭神の神社。明治12年、豊国神社の大阪別社として中之島(現、大阪市中央公会堂が建つ地)に創建。昭和36年に大阪城公園内(大坂城二の丸)に移築されました。出世開運の社として有名です。
千葉県富津市の内裏塚古墳群にある前方後円墳。墳丘長は106mで、稲荷山古墳と並んで内裏塚古墳群のなかでは3番目の規模を誇る大きな古墳です。周濠を含めると全長126mと推定されています。青堀小学校近くにありながら、こんもり…
千葉県富津市にある墳丘長122mという巨大な前方後円墳。内裏塚古墳群(だいりづかこふんぐん)のなかで、内裏塚古墳に次ぐ大きな古墳で、周囲に二重の周濠を巡らせ、周濠部を含めた全長は193mにも達します。江戸時代には三条塚古…
飯野陣屋(いいのじんや)は、江戸時代、上総国(かずさのくに)周淮郡(すえぐん)飯野(現・千葉県富津市下飯野)にあった飯野藩の藩庁。飯野陣屋のは藩主・保科家とその家臣たちの屋敷がありました。「日本三大陣屋」の一つに数えられ…
伊勢神宮に次ぐ社格の大宮で、三種の神器(さんしゅのじんぎ)のひとつ、草薙御劔(草薙神剣=くさなぎのみつるぎ)を祀っている名古屋の古社。総面積19万haの敷地内には、空海(弘法大師)の手植えと伝わる樹齢1000年の市内最大…
墳丘長27mで、内裏塚古墳群では三番目の規模を誇る方墳。残念ながら周辺の開発で墳丘は大きく削られてしまっています。昭和58に発掘調査が行なわれ、須恵器や土師器とともに石室内に安置された木棺に使用されたと推測される鉄釘が出…
内裏塚古墳群のひとつに数えられる前方後円墳。墳長106m、後円部径52m、前方部幅84mで6世紀の築造と推定されています。周囲を後円部分でで22m、前方部分でで17m幅の濠が巡らされています。調査によってさらに外側にも全…
千葉県富津市の内裏塚古墳群のひとつ。墳丘長103m(後円部直径57m、前方部幅74m)で、内裏塚古墳群では五番目の墳丘長を誇る大きな古墳です。内裏塚古墳、稲荷山古墳、三条塚古墳と並んで、須恵国造(すえのくにのみやつこ)な…
千葉県富津市にある墳丘長144mの前方後円墳で千葉県最大の古墳。関東地方でも第8位、千葉県内や房総半島、東京湾周辺では最大規模を誇る巨大古墳となっています。前方後円墳11基、方墳7基、円墳29基が確認されている内裏塚古墳…
富津市の青堀駅前のロータリー横にある古墳が上野塚古墳(うわのつかこふん)。前方後円墳11基、方墳7基、円墳29基の計47基の古墳が確認される内裏塚古墳群(だいりづかこふんぐん)の1基で、帆立貝型の前方後円墳。5世紀末頃築…
当初は清国北洋水師、次にロシア太平洋艦隊の来攻を想定して東京湾の入口、富津岬の基部に築かれた東京湾要塞のひとつが富津元洲堡塁砲台。東京湾要塞の一部として大正時代まで機能しました。現在は県立富津公園の一部で、要塞の中央部に…
同心円状に4重に堀が巡らされた田中城(静岡県藤枝市)。 信玄が配下の馬場信房に命じて甲州流の築城術を駆使して築いた難攻不落の城です。 江戸時代には田中藩の藩庁にもなりましたが、現在では田中藩も田中城も一部の城好き意外には…
慶長12(1607)年、将軍職を2代目・秀忠に譲った家康は隠居して駿府城(静岡市)に暮らします。 東海道の要衝である駿府に暮らすことで、江戸を守るのと同時に、西への睨みをきかしたのです。 人質時代に暮らした住みやすい温暖…
徳川家康の死因は、定かでありません。 一般に流布しているのは「鯛の天ぷらを食べて死んだ」というもの。 鯛の天ぷらにあたったのでしょうか? その鯛の天ぷらを食したといわれるのが、田中城(現・藤枝市)です。