讃岐国分尼寺跡(法華寺)

741(天平13)年に聖武天皇が諸国に造営を命じた国分尼寺のひとつ。当時の仏教は国教で、寺も国営の寺院。正式名は法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といい、讃岐国分寺の北東2kmに位置しています。東西180m~21m、南北180mが国の史跡に指定され、その中心に法華寺が建ち、山門にも法華滅罪之寺の額がかかっています。

聖武天皇が諸国に建立を命じた国分尼寺のひとつ

法華寺の山門
法華寺境内に残る巨大な礎石

現在の法華寺は、1846(弘化3)年に再興されたもので、境内には金堂の礎石と推定される石が現存し、国の史跡となっています。
北辺の春日神社あたりまでが往時の国分尼寺の寺域と推定され、金堂、講堂、尼房が一直線に並んだいたことが明らかになっています。

平成23年〜平成26年度に行なわれた発掘調査では、尼房跡、東西7間(28.4m)、南北4間(13m)の講堂跡が発見されています。
講堂跡の発掘調査では、軒瓦がまとまって出土。
創建当初からヘ平安時代のものまで4種類の軒瓦が並んで出土し、壊れた部分から修復して使っていたことが明らかになっています。

886(仁和2)年には讃岐国の国守だった菅原道真(すがわらのみちざね)もこの尼寺を訪れ、『法華寺白牡丹』の漢詩を詠んでいます。
7世紀後半には讃岐国でも妙音寺(現・三豊市豊中町上高野)、開法寺(現・坂出市府中町)など20以上の古代寺院が建立されていますが、いずれも瀬戸内海に勢力をもった地元の豪族の氏寺(うじでら)。

国分尼寺、そして讃岐国分寺のある讃岐国府一帯の綾川(あやがわ)沿いには、開法寺遺跡、鴨廃寺、醍醐寺跡という古代寺院の跡も発掘されています。

これらの寺院は国府開設(7世紀末~7世紀初頭)より以前に創建されており、古墳の位置などからこの地には、古代、有力な地方豪族がいたことが推測できます。

江戸時代の『讃岐国名所図会』には、「境内も八町ばかりありて塔美麗の大伽藍なりとぞ。天正年中失火に灰燼となりけり」と記され、現在確認されている金堂跡の礎石の南側に中門跡、あるいは南大門の跡と推測できる礎石が描かれているのですが、今も確認されていません。

『法華寺白牡丹』
色即為貞白  色はすなはち貞白(ていはく)たり
名猶喚牡丹  名はなほし牡丹(ぼうたん)と喚(よ)ぶ
嫌隨凡草種  凡草に随(なら)ひて植ゑられむことを嫌ふ
好向法華看  法華に向(なん)なむとして看るに好(ことむな)し
在地輕雲縮  地に在りては 軽き雲縮(しじま)る
非時小雪寒  時非(な)らずして 少しき雪寒(こ)いたり
繞叢作何念  叢(くさむら)を繞(めぐ)りて何の念(おも)ひをかなす
清淨寫心肝  清浄なるに 心肝(しむかん)を寫(そそ)かむ

『菅家文草』(かんけぶんそう)巻四 二五七

讃岐国分尼寺跡(法華寺)
名称 讃岐国分尼寺跡(法華寺)/さぬきこくぶんにじあと(ほっけじ)
所在地 香川県高松市国分寺町新居2365法華寺
関連HP 高松市公式ホームページ
電車・バスで JR端岡駅から徒歩16分
ドライブで 高松自動車道高松西IC、高松檀紙ICから約5km
駐車場 3台/無料
問い合わせ 高松市観光振興課 TEL:087-839-2011
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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