肥前国分寺跡
聖武天皇が741(天平13)年に出した国分寺建立の詔で全国に建立された国分僧寺のひとつ、肥前国分寺の跡。金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)が往時の正式名です。2町四方(1辺が約216m)のなかに…
聖武天皇が741(天平13)年に出した国分寺建立の詔で全国に建立された国分僧寺のひとつ、肥前国分寺の跡。金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)が往時の正式名です。2町四方(1辺が約216m)のなかに…
反射炉とは壁や天井の面などで輻射させ熱を増幅させて鉄などを溶かす炉のこと。長瀬町の日新小学校の校庭は、12代藩主鍋島直正の命を受け1850(嘉永3)年、大銃製造方という役所を設置し、国内初の洋式反射炉が築かれた築地反射炉…
佐賀市にある佐賀城跡は、外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城の跡。もとは戦国大名・龍造寺氏の居城だった村中城を、家臣でのちに佐賀藩主となる鍋島直茂、勝茂が拡張したもの。慶長年間に着手、1611(慶長16)年に完成しています。以来…
発掘調査、佐賀城御本丸差図、文献資料・古写真などを基にして正確な位置に木造で復元した佐賀城の本丸御殿の一部が佐賀県立の佐賀城本丸歴史館。木造復元建物としては日本最大級の2500平方メートルを誇っています。御座の間だけは、…
佐賀大和IC一帯の佐賀市大和町は、奈良・平安時代の肥前国の国府として栄えた地。肥前国庁跡歴史公園は、奈良〜平安時代の古代肥前国の政治の中心となった政庁の跡です。大型の礎石建物が発見され、国の史跡に。さらに一帯は歴史公園と…
長崎街道は長崎と小倉を25次の宿場で結んだ街道で全長は57里(約220km)。鍋島藩の城下町だった佐賀市にもこの街道が通っていますが、八戸町から長瀬町にかけては道沿いにある家の壁が一列ではなく、一軒おきに道路にくいこんで…
建築は18世紀前半(江戸中期頃)と推測され、佐賀城下に残る最古の町家建築が、佐賀市歴史民俗館・旧牛島家。もともとは佐賀城下の下今宿町(現・佐賀市朝日町3番4号)にあった町家建築で、1854(嘉永7)年の『佐嘉城下町竃帳』…
銀行類似業務を担う三省社(さんしょうしゃ)の店舗として明治15年に建てられた建物を保存するのが、佐賀市歴史民俗館・旧三省銀行。三省銀行は、明治15年2月に旧佐賀藩士の柿久栄次を頭取とし、佐賀郡の米穀商を株主として開業した…
古賀銀行の創設者で、「佐賀財閥」のひとり古賀善平の住宅が佐賀市歴史民俗館・旧古賀家。古賀銀行設立の前年、明治17年に建てられています。古賀家は大隈重信(佐賀城下会所小路の生まれ)も佐賀に帰郷の際は古賀邸にたびたび宿泊した…
佐賀市歴史民俗館は7棟の歴史的建造物の総称。その中心が旧古賀銀行です。明治18年、両替商をしていた古賀善平が設立した銀行で、佐賀県下の炭坑の好況を受け第七二国立銀行を譲り受けて業務を拡大、大正時代には県下最大の銀行となり…
唐津城は、初代唐津藩主の寺沢広高(てらざわひろたか)が、1602(慶長7)年から7年の歳月をかけて築城。豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれ、すでに廃城となっていた名護屋城の遺材を使用したとも伝えられます。松浦川が唐津湾…
呼子大橋(よぶこおおはし)は、海岸の台地に牛が放牧される加部島(かべしま)と東松浦半島を結ぶ斜張橋。平成元年に開通し、呼子町のシンボルともなっています。全長728mで、海面からの高さは27m、主塔は、橋桁から62.6mの…
唐津炭田と鉄道の普及(明治31年唐津興業鉄道開業)は唐津に大発展をもたらしました。明治45年築の旧唐津銀行本店は、建築家・辰野金吾に師事した清水組・田中実が設計施工した洋風建築。辰野金吾は唐津出身で、明治の建築界の巨匠と…
「麦や菜種はイナ 二年でイナ 刈るにヤーイナ 麻が刈らりょうかイナ 半ナ土用にイナ」。こきりこ節とともに五箇山地方を代表する五箇山民謡で、富山県の三大民謡(越中おわら節、こきりこ節)のひとつ。歌詞のうたい出しが「麦や菜種…
奴国までの旅は、ほぼルートがわかってきた! 【韓国から狗邪韓国へ】 水行し韓国をへて狗邪韓国に至る。7000余里 【狗邪韓国から対馬国へ】 始めて一海を渡る1000余里。対馬国に至る。1000戸余 【対馬国から一支国へ】…
全国には不思議な地名がたくさんあります。今回は取材班が目にした不思議な地名をピックアップ。初回は、ちょっぴりエッチな地名から。
今回はGoogleマップを使って『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)の旅を試みます。『魏志倭人伝』は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。3世紀末に西晋の陳寿が記した3世紀の日本を知る貴重な…