旧笠間城八幡台櫓
茨城県笠間市にある笠間城の貴重な遺構が旧笠間城八幡台櫓。笠間城本丸の八幡台にあったものを、廃城令(明治6年)後の明治13年、山麓の日蓮宗の寺、真浄寺に移築復元した櫓で、平時は、武器貯蔵庫として、戦時は物見に使われたと推測…
茨城県笠間市にある笠間城の貴重な遺構が旧笠間城八幡台櫓。笠間城本丸の八幡台にあったものを、廃城令(明治6年)後の明治13年、山麓の日蓮宗の寺、真浄寺に移築復元した櫓で、平時は、武器貯蔵庫として、戦時は物見に使われたと推測…
山梨県甲府市にある中世の山城が要害山城(ようがいやまじょう)。武田氏館、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=現在の武田神社)の詰城(つめのしろ)として要害山に築かれた城で、永正17年(1520年)、武田信玄の父、武田信虎(た…
愛知県名古屋市千種区にある名古屋市上下水道局の給水施設。大正10年8月22日の大合併での市域倍増を機に、水道施設の拡充が図られ、東山の丘陵地を利用し、昭和5年に完成した鉄筋コンクリート製、高さ37.85mの給水塔が東山給…
埼玉県鴻巣市、埼玉県道307号(福田鴻巣線)の大芦橋近く、荒川河川敷に植栽された1000万本のコスモスが吹上コスモス畑。ピンクと白が混ざったセンセーション、ブライトライト(黄花コスモス)、淡い黄色のイエローキャンパスなど…
埼玉県熊谷市と鴻巣市の間、埼玉県道307号(福田鴻巣線)の大芦橋近く、荒川とその南を流れる和田吉野川に架るのが荒川水管橋。全長1100mで、日本最長の水管橋(水道管のための橋)。昭和59年7月に通水を開始した水道(埼玉県…
宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉、国道457号と分岐した、蔵王エコーライン・宮城県道12号(白石上山線)の入口部分(鬼石原)に、蔵王エコーラインをまたいで立つのが蔵王大権現大鳥居。昭和37年11月の蔵王エコーライン開通を記念…
宮城県刈田郡蔵王町・七ヶ宿町、蔵王山上の刈田峠で蔵王エコーラインから分岐し、刈田岳・刈田嶺神社(奥宮)に至る2.5kmの有料山岳道路が蔵王ハイライン。昭和37年11月の蔵王エコーラインの開通を受け、昭和39年に開通。蔵王…
宮城県刈田郡蔵王町・七ヶ宿町と山形県上山市をつなぎ、昭和37年11月8日、全長25km(山形県側14km・宮城県側11km)、幅員6mの山岳有料道路として全線開通。昭和39年9月27日に、蔵王町・七ヶ宿町境の刈田峠から御…
宮城県仙台市青葉区、昭和8年、名取川水系青下川に建設されたダムで、国の登録有形文化財に指定。仙台市水道のの拡張事業で下流側から順に青下第1ダム、青下第2ダム、青下第3ダムの3つの貯水池(青下水源地)が築かれたもので、すべ…
宮城県伊具郡丸森町、北上川、最上川に次いで東北三大河川(東北三大長流)のひとつ阿武隈川(あぶくまがわ)を下る舟下りが、阿武隈ライン舟下り。舟下りはもちろん、カヌーやSUP、水上バイクの「リバー・アクティビティ丸森」の体験…
宮城県宮城郡松島町、沿線に松島パノラマライン展望台、西行戻りの松公園などのある、その名の通り眺めのいい町道が松島パノラマライン(町道松島パノラマ線)。東北観光開発センター経営の有料道路でしたが、平成9年3月16日に無料化…
宮城県大崎市鳴子温泉、宮城・山形県境に聳える禿岳(かむろだけ/1261.7m)を源流とする上大沢川にある宮城県営の多目的ダム(平成16年完成)が上大沢ダム。堤高19mのアースフィルダムで、かむろ湖(湛水面積8ha)がダム…
宮城県登米市津山町にある曹洞宗の禅寺が大徳寺(横山不動尊)。津山杉が鬱蒼と茂る森に建つ不動尊で、境内全域が南三陸金華山国定公園に指定。国の重要文化財の木造不動明王坐像は桂材に彫られた丈六(像高275cm)という立派なもの…
宮城県仙台市宮城野区の榴岡公園(つつじがおかこうえん)にある仙台市の近現代史、民俗、文化を紹介するミュージアムが仙台市歴史民俗資料館。建物は、旧日本陸軍第二師団歩兵第四連隊兵舎。建築は明治7年、あるいは明治9年と推測され…
宮城県白石市、鎌先温泉近くにある「弥治郎こけし」発祥地がこけしのふる里・弥治郎集落にある施設が、弥治郎こけし村。弥治郎集落は。木地師(きじし)が轆轤(ろくろ)を用いて木地挽きを営なむ集落で、弥治郎こけし村ではこけしの絵付…
茨城県北茨城市大津町五浦、切り立った断崖が複雑に入り組み変化に富んだ景色を生み出みだしている五浦海岸(いづらかいがん)。南から小五浦、大五浦、椿磯、中磯、端磯という深く切り込んだ大小5つの入江の澄んだ海の色や断崖の上に茂…
茨城県ひたちなか市の磯崎町から平磯町にかけての海岸線は、「那珂層群」(那珂湊層)と称される中生代白亜紀の地層で形成される岩礁地帯。一帯が平磯海岸(平磯白亜紀層)で、岩石は砂岩、泥岩、礫岩などでできており、軟かい部分が波に…
茨城県北茨城市大津町五浦、五浦海岸(いづらかいがん)をこよなく愛した岡倉天心は、明治39年、この地に日本美術院第一部五浦研究所と住居を移し、2年後に東側の断崖の上に朱塗りの六角堂を建てています。一帯は現在、茨城大学五浦美…