立待岬
晴れた日なら、津軽海峡の先の下北半島が間近に迫る絶景地が函館山から派生する尾根の東端、海に落ちる立待岬。寛政年間には、北方警備の台場が設置され、外国船を監視する要地でもあった場所で、明治時代には函館要塞(函館山全体が要塞…
晴れた日なら、津軽海峡の先の下北半島が間近に迫る絶景地が函館山から派生する尾根の東端、海に落ちる立待岬。寛政年間には、北方警備の台場が設置され、外国船を監視する要地でもあった場所で、明治時代には函館要塞(函館山全体が要塞…
函館市を走る国道278号沿いの大森海岸にある公園が啄木小公園。明治40年に「石をもて追はるるごとく」、故郷・渋民(岩手県)を離れた石川啄木は、5月から函館大火に遭う9月まで、函館・青柳町に居を構えています。大森海岸は、そ…
萩城下の菊屋横丁沿いに建つのが高杉晋作旧宅(高杉晋作誕生地)。天保10年8月20日(1839年9月27日)、萩藩士大組士・高杉小忠の長男として生まれた高杉晋作。禄高200石ほどの中級武士・高杉小忠太の長男として生まれまし…
長州藩の尊王攘夷の志士として活躍し、奇兵隊を創設し、長州藩を倒幕に傾けた明治維新の立役者のひとり、高杉晋作。慶応3年4月14日(1867年5月17日)、肺結核を療養中の下関市桜山で没。下関市の妙蓮寺前に「高杉晋作終焉の地…
山口県下関市の東行庵境内にある高杉晋作顕彰碑。明治44年5月20日、井上馨によって除幕されています。撰文は伊藤博文で、杉孫七郎が揮毫しています。 高杉晋作顕彰碑 碑文 動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然として…
明治維新の立役者のひとりとして知られる高杉晋作の霊位礼拝堂として明治17年、下関に創建されたのが曹洞宗の寺、東行庵(とうぎょうあん)。初代庵主となったのは、晋作の死後、曹洞宗総本山永平寺貫主・久我環渓禅師から得度を受けた…
日光御成道・鳩ヶ谷宿にある真言宗智山派の古刹で、寺伝によれば聖武天皇の御代(724年〜749年)に創建というのが地蔵院。本尊の地蔵菩薩は行基作との伝承があり、さらに不動明王立像は、運慶・快慶に代表される慶派仏師の手になる…
伊奈氏は、徳川家康に従い関東入国すると、治水、新田開発に従事しました。伊奈忠治(いなただはる)は代官職を継ぐと幕府から赤山領7000石を下賜され、武蔵国赤山(現・埼玉県川口市赤山)に赤山陣屋を築いています。この陣屋を拠点…
元和4年(1618年)、関東郡代・伊奈忠次が領地の赤山あった古寺を再興して伊奈家の菩提寺としたのが源長寺。関東の天領を差配する拠点とした赤山陣屋を築くのは寛永6年(1629年)、その子・伊奈忠治の時代なので、赤山陣屋より…
明治43年築の旧第九十銀行本店本館を再生し、石川啄木と宮沢賢治が青春を育んだ盛岡の街とふたりの青春時代を紹介する博物館がもりおか啄木・賢治青春館。ふたりはともに盛岡中学の出身。旧第九十銀行本店本館設計者の横濱勉(よこはま…
石川啄木の人となり、文学について顕彰し、資料を保存、収集、公開する盛岡市の記念館で啄木の故郷の渋民に建っています。現在の建物は啄木生誕百年を記念して昭和61年に建設されたもの。石川啄木の直筆書簡やノート、渋民尋常高等小学…
中学時代からの友人である堀合節子と19歳で結婚した石川啄木が、明治38年6月4日から6月25日までの3週間を暮らした家が盛岡市に現存する啄木新婚の家。父母、妹との同居で人生は毎日が貧困との闘いでした。啄木・節子夫妻が質素…
下関市の沖合400mに浮かぶ巌流島(がんりゅうじま)は、関門海峡に浮かぶ小島。正式名は船島ですが、佐々木小次郎の号である厳流から今では巌流島と呼ばれています。二刀流の達人・宮本武蔵と燕返しで知られる、佐々木小次郎が慶長1…
東京・池袋のサンシャイン60(地上239.7m、海抜269.8m)の最上階にある展望台がSKY CIRCUS サンシャイン60展望台。平成28年4月に「体験する展望台」へと変身し、VR(仮想現実)デバイスを使った「TOK…
姫路市街の北西部に位置する書写山は、標高371m。参道代わりとなっている書写山ロープウェイは、山麓駅(書写駅)と山上駅(山上駅)の高低差210mを約4分間で結んでいます。標高250mの山上駅を下りれば、「西の比叡山」とも…
康保3年(966年)、性空上人が開山した古刹で、姫路の書写山(標高371m)全体が寺域となった天台宗の別格本山が書写山圓教寺。比叡山、大山とともに天台の三大道場として栄え、「西の比叡山」とも呼ばれています。西国三十三所第…
延暦13年(794年)、平安京遷都に際し、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命おおくにぬしのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后じんぐうこうごう)を合祀し、桓武天…
織田信長の死後、羽柴秀吉と徳川家康が覇権を争って戦った小牧・長久手の戦いの主戦場・長久手古戦場仏ヶ根跡を公園として整備したのが長久手古戦場公園。長久手合戦では家康軍が勝利を収め、秀吉軍には多数の戦死者(両軍の死者は秀吉軍…