本能寺

本能寺

応永22年(1415年)、日隆聖人によって創建された法華宗本門流の本山が本能寺。天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀が主君である織田信長を裏切り、信長が自刃した「本能寺の変」で広く知られています。本能寺の変が起こった際、本能寺は四条坊門西洞院にあり、現在の場所ではありません。

信長の墓所が残る「本能寺の変」の舞台

本能寺

創建当初は本応寺という寺名でしたが、永享5年(1433年)の再建時に本能寺に改まっています。
応仁の乱後、京の復興に尽力した町衆の多くが「本門八品上行所伝本因下種之南無妙法蓮華経」と唱える法華宗門徒でだったこともあって、法華経弘通の霊場、洛中法華21ヶ寺の一つとして栄えました。

種子島に布教していたこともあって、戦国大名とは密なる関係に。
鉄砲を積極的に取り入れた織田信長はその筆頭でした。
織田信長は本能寺の日承上人に帰依し、本能寺を上洛時の宿所としていたのです。
天皇家と親戚だった日承上人とつながりを得、鉄砲の入手が楽になり、さらに防御の機能も有した本能寺は、信長にとっては魅力的な寺だったのでしょう。

本能寺の変で、明智光秀軍に取り囲まれた信長は、『信長公記』によれば自刃したことになっていますが、遺体は発見されていません。
本能寺の変で焼け落ちた寺ですが、7月4日に織田信孝(織田信長の三男、清洲会議で秀吉と対立)は、僧は寺に戻り、焼け跡を墓所とするようにと命じています。

本能寺は、天正15年(1587年)、豊臣秀吉の京の都市改革(天正の地割=南北方向の通りの中間に新たに通りを建設し、空き地を減少させる改革)で、現在地に移転しています。
天正20年(1592年)、織田信長の墓所ということもあって、現在の京都市役所や御池通まで含む広大な寺地に、伽藍が完成しています。

徳川家との関係も良好で、江戸幕府から朱印地40石を与えられ、江戸時代には末寺92を数える大寺院に発展しています。

境内には織田信長の廟所が残るほか、信長の家紋の入った授与品も

本能寺

信長公廟(拝殿)

本能寺

信長公廟の信長墓所

元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)に際しては、長州藩邸に隣接していたこともあって、焼失。
現存する本堂は昭和3年の再建で、毎朝6:00〜のお勤めは、一般の参加も可能です(椅子席)。

境内には織田信長の廟所、森蘭丸など本能寺ノ変戦没者合祀墓が残されています。
また「大寶殿」では、藤原行成の書、織田信長肖像画、信長の禁制朱印状(信長が本能寺を宿舎にするにあたり本能寺と交わした約束状)など、国宝や重要文化財などの寺宝を公開。

6月第1土・日には「信長まつり」が行なわれ、本堂での信長公忌法要のほか武者行列パレードなどを実施。
塔頭(たっちゅう)は、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院が現存。

授与品の中には織田信長の家紋・木瓜紋(もっこうもん)の入ったお守り、御朱印袋、御朱印帳は信長ファンに人気です。

本能寺 DATA

名称 本能寺/ほんのうじ
Honnouji Temple
所在地 京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522-1
関連HP 本能寺公式ホームページ
電車・バスで 地下鉄東西線京都市役所前駅から徒歩1分
ドライブで 名神高速道路京都南ICから約8.5km
駐車場 市営御池地下駐車場(1000台/有料)
問い合わせ TEL:075-231-5335
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

本能寺跡

2018.06.04

 

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