亀山城多門櫓

亀山城多門櫓

伊勢国鈴鹿郡亀山(現在の三重県亀山市本丸町)にあった伊勢亀山藩の居城、亀山城。現存する往時の遺構が亀山城多門櫓です。松江藩主・堀尾忠晴の勘違いから天守を寛永9年(1632年)に解体されてしまったため、小藩ということもあってか天守の再建はなく、正保年間(1644年~1647年)に天守台に多聞櫓が築かれています。

往時の位置に現存する三重県唯一の城郭建築

寛永9年(1632年)、松江藩主・堀尾忠晴(ほりおただはる)は、幕府に丹波亀山城(現・京都府亀岡市)の天守を破却するように命じられましたが、なんと伊勢亀山城と取り違えて、伊勢亀山城の天守を解体するという大失態を演じてしまいます(翌年死去し、大名家を廃絶)。

こうして、天守解体後の天守台に建てられたのが、近世的な多聞櫓です。
現存する亀山城多門櫓は江戸時代後期の再建のもので、三重県の文化財。

多聞櫓は、防火を考慮した白漆喰塗籠(しろしつくいぬりごめ)の建築で、長屋式(多門/多聞=長屋式)という特徴があります。
三重県下で唯一、往時の場所に建つ城郭建築で、明治以降に下見板が張られていましたが、平成25年春に完成した「平成の大修理」で江戸時代末期の姿へと復原されています。

多聞櫓を建てたのは三河西尾藩から移封の本多俊次(ほんだとしつぐ=徳川四天王の一人である酒井忠次の孫)の時代。
以降、板倉家や石川家など譜代大名の居城となっています。

多聞櫓が天守台にあるのは、譜代大名の城としては貧弱にも感じますが、本丸には将軍(上洛する徳川家康、秀忠、家光)や皇室の宿泊所である本丸御殿が建ち、二の丸に、藩主の居館である二の丸居屋敷があったので、すでに天守の役割はほとんどなかったため。
つまり、天守台に建つ多聞櫓は、太平の世には住居や物置(武器庫)として使われていたと推測できるのです。

天守台の石垣は往時のままで、転用石(寺の墓石や石仏など他の用途で使われていた石を転用)も使われています。

亀山公園は往時の本丸、西出丸跡で現在の池は当時の堀の一部。
亀山市役所の建つ場所が二の丸にあたります。
大手門跡は江ヶ室交番前交差点近くにあり、東丸町がかつての東三の丸。

亀山城多門櫓
天守台石垣の転用石
名称 亀山城多門櫓/かめやまじょうたもんやぐら
場所 三重県亀山市本丸町
関連HP 亀山市公式ホームページ
電車・バスで JR亀山駅から徒歩11分
ドライブで 東名阪自動車道亀山ICから約4.5km
駐車場 亀山公園駐車場(80台/無料)
問い合わせ 亀山市まちなみ文化財室 TEL:0595-96-1218
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

亀山城跡

亀山城は、1265(文永2)年、関実忠が若山(現・三重県亀山市若山町)に築城した亀山古城に始まる東海道の要衝に位置する城。1590(天正18)年、羽柴秀吉に仕えた岡本良勝が近世的な城郭に変え、その後、歴代藩主の手で城郭が整備されました。藩政

加藤家長屋門

加藤家長屋門

三重県亀山市、かつての亀山城の城下町に現存するのが加藤家長屋門。加藤家は江戸時代後期の亀山城主石川家の家老職を務めた家。屋敷は亀山城西の丸に位置しています。現存する長屋門は、屋敷の表門で、内部には男部屋、若党部屋など4部屋が配され、土塀で連

 

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