亀山演武場

亀山演武場

三重県亀山市、亀山藩の藩庁があった亀山城内、亀山神社境内に建つのが、亀山演武場。幕末に山崎利右衛門(雪柳軒)が武術の錬成場で、明治15年、亀山演武場は、野村(現・南野町)から旧二の丸に移築、さらに明治40年、亀山神社境内に再移築されています。

亀山藩御流儀心形刀流武芸形を今に伝える演武場

亀山藩江戸藩邸で生まれた山崎利右衛門(雪柳軒)は心形刀流(しんぎょうとうりゅう)8代・伊庭秀業(いばひでなり)に入門、江戸の伊庭道場で免許皆伝を許され師範となりましたが、元治元年(1864年)、江戸詰めを解かれ伊勢亀山に帰藩後、南野村(現・南野町)に亀山演武場を設立、自藩の剣士育成に励んでいます。
廃藩後に演武場は山崎利右衛門(雪柳軒)に下賜されましたが廃刀令もあり、赤心社を結成してその維持に奔走。

往時の建物は昭和60年に火災によって焼失し、昭和63年に再建され、心形刀流保存赤心会、亀山剣道少年団蛇の目会の道場となっています。

伊庭秀明が天和2年(1682年)に開いた心形刀流は、剣の形とともに心のあり方も重視する流派で、第8代・伊庭秀業が、竹刀と防具を用いた打ち込み稽古を導入。
伊庭秀業の道場「練武館」は、士学館(鏡新明智流)、玄武館(北辰一刀流)、練兵館(神道無念流)の三大道場に加え、「幕末江戸四大道場」のひとつに数えられていました。

その心形刀流は、第10代・伊庭想太郎が明治34年、東京市会議長・星亨(ほしとおる)を刺殺したことで投獄されて途絶、今では亀山だけに残され、心形刀流保存赤心会により、綿々と伝えられています。
亀山藩御流儀心形刀流武芸形(かめやまはんおんりゅうぎしんぎょうとうりゅうぶげいがた)は三重県の無形文化財に指定。

亀山演武場
名称 亀山演武場/かめやまえんぶじょう
所在地 三重県亀山市西丸町570-1亀山神社境内
電車・バスで JR亀山駅から徒歩11分
ドライブで 東名阪自動車道亀山ICから約4.5km
駐車場 亀山神社駐車場(6台/無料)を利用
問い合わせ 亀山市商工農林課 TEL:0595-84-5049
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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