三段壁
白浜の西端に広がる延長2kmの海食崖で、新第三紀層の厚い砂岩の地層(田辺層群)が波の侵食を受けて隆起し、50mもの断崖となったもの。ここにはその昔、漁師たちが行き交う船や魚群を見張った「見壇(みだん)」があり、地名は見壇…
白浜の西端に広がる延長2kmの海食崖で、新第三紀層の厚い砂岩の地層(田辺層群)が波の侵食を受けて隆起し、50mもの断崖となったもの。ここにはその昔、漁師たちが行き交う船や魚群を見張った「見壇(みだん)」があり、地名は見壇…
白浜北西の海岸沖に浮かぶ南北130m、東西35mほどの小島。正式には高嶋といいますが、島の真ん中にぽっかりと開いた円形のトンネル(海蝕洞)があり、明治の漢学者・津田東巌(つだとうがん)が、海に沈む月に見立てたことから「円…
和歌山市の中心部、紀ノ川河口の虎伏山(とらふすやま・標高48.9m)に建つ平山城。もとは1585(天正13)年、有力豪族・雑賀党(さいかとう=雑賀衆)を破り紀州を平定した羽柴秀吉(翌年豊臣姓に)が、弟・秀長のために藤堂高…
城の石垣などの下方をあけて門にした形式を埋門(うずみもん)と呼びますが和歌山城天守曲輪、小天守横にあった御台所の通用門が天守埋門。御台所と水の手を直結する門で、平時にはこの門を開けて水などを供給していました。水の手には黄…
羅臼峠近くの幌萌にあるオンコの森。公園とはいうものの下草を刈る程度の自然公園で鹿や熊も出没。4.5haの園地に樹齢数百年というオンコ(イチイ)の大木が茂っています。周辺では先住民族の遺跡も見つかっていますが、公園ともども…
和歌山城の表坂を上った松の丸にある石庭。もともとは、本丸曲輪にあった本丸御殿の中庭だったのですが、大正12年に本丸御殿跡に上水道施設(現・和歌山市水道局城内給水場)を設置した際に、松の丸に移設されました。1621(元和7…
和歌山城の建つ山は、海上から見ると虎が伏せたように見えることから、虎伏山と呼ばれ、城も虎伏竹垣城という別名があります。和歌山城の別名にちなんで、昭和34年に作られたのが2代目となる虎の像です。
和歌山城西の丸の紅葉渓庭園復元を記念して、和歌山市の名誉市民・松下幸之助が寄贈し、昭和49年5月に完成した茶室。茶道の心得がなくても気軽に立礼室で抹茶を楽しむことができます。もともとこの場所には茶室の遺構があり、そこに数…
菱形になった和歌山城本丸曲輪の東の高台にあったのが本丸御殿。元和年間(1615年〜1624年)に創建されたもので、中央に七福の庭を配していました。初代・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)と正室、14代藩主・徳川茂承(とくがわも…
大正4年4月7日、和歌山城南の丸に創立された歴史ある動物園。哺乳類を主体とする童話園と水辺の鳥が羽ばたく水禽園があり、合計100余頭羽の動物を飼育展示しています。平成27年7月には、和歌山公園動物園の100周年記念事業の…
和歌山城の二之丸背後にある台所門から本丸・天守曲輪へと至る搦手(からめて=裏側)側の登城ルートが裏坂。屈曲した石段で上ると、かつて本丸には本丸裏門がありました。坂を上ると左手に本丸御殿、右手に天守の建つ天守曲輪という構図…
和歌山城の大手門の反対側、搦手側(からめてがわ=裏側)から砂の丸に入る門。門を出て、道を隔てた反対側に馬術を練習する追廻(おいまわし)があったことが名の由来になっています。1619(元和5)年、和歌山藩初代藩主の徳川頼宣…
1619(元和5)年、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)の入城後、和歌山城の表門となった一の橋南詰に建つ大手門。創建当初は一之橋御門と呼ばれていましたが、1796(寛政8)年に大手御門と改称しています。明治42年に自然倒壊し、…
1600(慶長5)年の浅野幸長入城後、和歌山城南東の虎口(こぐち=出入口)に位置する大手門として創建。1619(元和5)年、初代和歌山藩主・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)入城とともに、峡橋を渡っての参勤交代に不便などの理由…
初代紀州藩主・徳川頼宣が和歌山城の西の丸に西の丸御殿とともに造られた日本庭園が紅葉渓庭園(西の丸庭園)で、藩主の隠居所。徳川時代以前の浅野家城主時代には庭園の一部となっている山吹谷は水堀だったとか。虎伏山山麓の起伏を生か…
和歌山藩主と側近だけが藩の政庁や藩主の居館である二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を行き来するために架けられたのが御橋廊下。屋根があり、外からは見えない構造で、二の丸側から11度の角度で下るという珍しい構造のため、滑り止めの…
国の史跡となっている和歌山城の二の丸にあるのが二の丸庭園。現在は構築物はありませんが、往時は二の丸御殿が建っていた場所。虎伏山(とらふすやま・標高48.9m)山頂の天守やその東の本丸御殿で政務を司るのは不便なので、二の丸…
近世の和歌山城天守閣は、浅野幸長が関ヶ原の戦の軍功で紀州藩主となり入城した際、1605(慶長10)年頃、下見板張りの天守が建てられたのが始まり。1846(弘化3)年の天守曲輪の雷雨で全焼し、1850(嘉永3)年に再建。幕…