松山城・筋鉄門
松山城の天守がそびえる本壇、三ノ門を越え右に曲がるといよいよ大天守西の中庭に通じる筋鉄門(すじがねもん/東向き)。南に小天守、北の大天守に連続という重要な櫓門で、天守玄関がある中庭を防衛する大切な場所です。
松山城の天守がそびえる本壇、三ノ門を越え右に曲がるといよいよ大天守西の中庭に通じる筋鉄門(すじがねもん/東向き)。南に小天守、北の大天守に連続という重要な櫓門で、天守玄関がある中庭を防衛する大切な場所です。
艮(うしとら)とは東北の意。松山城の本丸の東北に位置する門で、艮門東続櫓とともに本丸東面の防御の要。いざという時には大手(表側)や搦手(裏側)から迫る敵兵を奇襲するため、この門から兵を出撃させる役目も担っていました。NH…
松山城の天守がそびえる本壇。強固な防御を誇る本壇ですが、二ノ門を過ぎると本壇の広場となり、登城道はここで左に屈曲して三ノ門となります。松山城・三ノ門は、北向きの高麗門(こうらいもん)で、西に大天守、南に三ノ門南櫓と筋鉄門…
松山城の天守の建つ本壇(本丸曲輪の天守が建つ中心部分)を守る門が一ノ門。西に向いた高麗門で、目の前(西側)には小天守が聳えています。門の南に一ノ門南櫓、門の北に三ノ門南櫓が配される防御態勢。二ノ門との間は枡形になっており…
松山城の天守がそびえる本壇。一ノ門をくぐり、9段の石段を上り左に折れると薬医門の二ノ門(南向き)が待ち構えています。つまりは二ノ門の名前のとおりにここが本壇二番目の門。二ノ門前の枡形(広場)は三ノ門南櫓、一ノ門、一ノ門南…
松山城の大手門から本丸を目ざすと、坂を上り、本丸・太鼓櫓の高石垣下で登城ルートは屈曲して戸無門(となしもん)に出ます。本丸の大手入口の最初の門で、慶長年間の創建当初から門扉がないのでと戸無門という名があります。敵を防備の…
松山城の本丸の巽(たつみ=南東)の位置にある隅櫓が巽櫓(たつみやぐら)。太鼓櫓・太鼓門・太鼓門東続櫓・巽櫓と連続する本丸最強の防御ラインの一角で、本丸下の東側の監視とともに筒井門を突破し太鼓門に到達した敵軍の背後を攻撃で…
松山城の小天守の南真下に位置し、天守の建つ本壇(天守曲輪)の搦手側入口(裏口)を守る脇戸の付いた高麗門(こうらいもん)が紫竹門(しちくもん)。北を正面とし、東塀・紫竹門・西塀という逆L字になった防御で大手(正面)と搦手(…
松山城で三之丸、二之丸から本丸へ向かう途中、大手を固めるもっとも重要な櫓門が筒井門です。松山城の場合、二之丸と本丸は標高差で90mもあるという天然の要害になっています。いかにも堅牢そうな門は、松山城でも最大の門で、築城の…
松山城の本丸南西の櫓(やぐら)で戸無門下から見上げると石垣の上に屹立しているのが太鼓櫓。大手方面を一望する展望的な櫓で、いざという時に太鼓を鳴らしたのでその名があります。
往時の天守が残る全国現存12天守のひとつが松山城・天守で国の重要文化財。松山城は津山城(岡山県津山市)、姫路城と並び「日本三大平山城」に数えられますが、勝山(城山)山頂の本丸に位置するのが天守。創建当初は五重の天守だった…
JR別府駅から駅前通りを徒歩10分の竹瓦温泉。明治12年に建造、その後改装を重ね、明治35年に共同温泉が完成。当初は竹屋根葺きで、瓦葺きに改修されたことから竹瓦温泉の名が付いたという別府を代表する共同湯。現在の建物は昭和…
門司港レトロ地区に残る明治期の希少な建物が旧門司税関。明治42年、長崎税関から分離独立し(それ以前は明治22年開設の長崎税関の出張所でした)、全国7番目の税関として門司税関発足時に建設されたもの。当時は大阪商船に似た尖塔…
大正10年、三井物産門司支店の貴賓をもてなす社交倶楽部として建てられたものが旧門司三井倶楽部。梁や柱を外側に露出したハーフティンバー様式(木骨様式)の木造2階建ての洋館は、国の重要文化財。各部屋にマントルピース(暖炉)が…
昭和63年、現役の鉄道駅として初めて国の重要文化財に指定された歴史ある駅舎が門司港駅。建設されたのは大正3年で、駅舎の場所を200mほど移して本格的なネオ・ルネサンス様式を採用した木造2階建ての現駅舎を建築しています。ド…
大宰府政庁跡の東、観世音寺との間に位置する水田地帯の小字(こあざ)の名は「学業」で、かつてこのあたりには観世音寺の子院・学業寺があったとされる地。隣接して奈良時代から平安時代にかけての教育機関「大宰府学校院」があったとも…
天智天皇(てんじてんのう)が約1300年前に九州の政治の中心として創建した役所が大宰府政庁(だざいふせいちょう)。奈良から平安時代にかけて九州を治め、わが国の西の守りとしての防衛を、また外国との交渉の窓口として重要な役割…
筑前国分寺の北東200mに位置する、8世紀中頃につくられた古代の瓦窯跡。741(天平13)年に出された聖武天皇の「国分寺・国分尼寺建立の詔」により、後に造営された筑前国分寺の屋根瓦を焼くために造られたと推測される瓦窯の跡…