北の庄城跡(柴田公園)

福井駅から南西500mにある柴田公園は、戦国時代末期に柴田勝家の居城・越前北の庄城跡。浅井長政と運命をともにした朝倉氏(朝倉義景)の滅亡後、越前の一向一揆を平定した功績により柴田勝家が越前を領有。1575(天正3)年から4年の歳月をかけて築城した北の庄城の天守がそびえ立った場所で、「日本の歴史公園100選」に選定。

柴田勝家とお市、お江たち浅井三姉妹が暮らした城跡

天下の名城の誉れ高い安土城でさえ7層の天守であったのに対し、北の庄城はそれをしのぐ9層(7層という説も)という日本最大級の天守閣を誇っていました。

織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれた後、1582(天正10)年6月27日、の清州会議で露呈した後継者選定と権力争いで柴田勝家と羽柴秀吉が対立。
1583(天正11)年、近江湖北・賤ヶ岳の戦いで秀吉軍に敗北。

北の庄城は、築城からわずか8年、秀吉軍の追走を受けた柴田勝家は自ら城に火を放ち、愛妻・お市の方(淀、お初、お江の浅井三姉妹の母=浅井長政死後に清洲会議で勝家に嫁ぐ)や一族とともに壮絶な最期を遂げたことは有名です。

その跡地に徳川家康の次男・結城秀康(松平秀康)によって1601(慶長6)年に北の庄城が築かれ、藩政時代には福井城となったため、柴田氏時代の城は完全に消失し、詳細は定かでありません。
結城秀康がその北の庄城の遺構を大胆に改変し、福井城を造営していった様子も地層の切り合いの中で確認されています。

現在も発掘調査が続けられ、跡地から北の庄城の数少ない遺物、石垣や鬼瓦やなどが出土しています。

柴田公園内には柴田勝家とお市の像、三姉妹像、さらに勝家の子孫であるいう日本画家・平山郁夫揮毫(きごう)による記念碑が立っているほか、隣接して柴田勝家とお市を祀る柴田神社が建立されています。

また、「北の庄城址資料館」(9:00〜18:00/入館無料)もあり、柴田勝家の偉業を紹介し、北の庄城に関する遺物や史料を展示しています。

柴田勝家
尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)の下社城で生誕(『張州府誌』)。
織田信秀(織田信長の父)に仕え、織田家の重鎮として出世。
1573(天正元)年8月の一乗谷城の戦いにも参戦し、1576(天正4)年、前田利家、佐々成政、不破光治らを与力に加賀国を平定。
本能寺の変後の清洲会議で、羽柴秀吉と対立し、勝家は信長の妹・お市の方と結婚。
その後、秀吉との決戦・賤ヶ岳の戦いに敗北し、1583(天正11)年、4月24日に北ノ庄城にてお市とともに自害。
墓所は福井県福井市の西光寺と滋賀県高島市の幡岳寺。
宣教師ルイス・フロイスは、「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人」と評しています。

北の庄城跡(柴田公園)
名称 北の庄城跡(柴田公園)/きたのしょうじょうせき(しばたこうえん)
所在地 福井県福井市中央1-21-17
関連HP 福井市公式ホームページ
電車・バスで JR福井駅から徒歩5分
ドライブで 北陸自動車道福井ICから約4.5km
駐車場 福井市大手駐車場(266台/30分まで無料、以降有料)
問い合わせ 福井市公園課 TEL:0776-20-5460/FAX:0776-20-5769
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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