福井城跡

福井藩主・越前松平家の居城で、家康の次男・結城秀康時代に幕府の威信をかけ全国諸大名も参加して築城した福井城。福井市街地の中心に残る福井城跡の本丸には、現在、福井県庁、県会議事堂、県警察本部などが建ち並んでいます。明治維新後、外堀は埋められましたが内堀、石垣、天守台などが往時の威風を今に伝え、「続日本100名城」に選定。

往時は巨大だった城郭も本丸の石垣、内堀のみに往時を偲ぶ

復元された御廊下橋
整備された天守台

戦国時代に柴田勝家(しばたかついえ)は越前北の庄城(天守は現在の柴田神社)を築城しましたが、秀吉軍の攻撃で落城。
関ヶ原合戦後の1600(慶長5)年、徳川家康の次男、結城秀康(ゆうきひでやす)が下総結城10万1000石から68万石で北ノ庄に加増移封されています。
福井城の築城は幕府の威信をかけ、全国諸大名も加わって6年の歳月をかけて巨大な城が完成しています。

結城秀康は、徳川のルーツである松平姓に戻し、さらに第3代藩主・松平忠昌(まつだいらただまさ)は北の庄の「北」が敗北につながることから城の名を福居城に改めています。
福井城中の井戸からとった名で、元禄時代に福居から福井に改名しています。

天守台のそばにある福の井が福井の地名の由来ともいわれるが定かでありません。

創建当初の5階の天守は1669(寛文9)年に焼失。
以降は本丸南西隅の2重巽櫓を3重に再建し天守の代用としています。

足羽山麓にある高照山瑞源寺の本堂と書院が福井城本丸御殿の遺構。
御廊下橋と、それに続く山里口御門が復元されています。
平成29年に復元された山里口御門は、天守臺下門(てんしゅだいしたもん)とも呼ばれ、本丸の西側の入口を守る重要な枡形門です。
県庁正面から西側にかけての石垣220mと御廊下橋は、日没〜22:00の間、ライトアップも実施。

福井城本丸北にある養浩館庭園は、江戸時代に「お泉水屋敷」と呼んだ福井藩主松平家の別邸。
福井藩や福井の歴史に関しては福井市立郷土歴史博物館に詳しく解説されているのであわせて見学を。

石塁の城内側を石の階段とする大規模な雁木
復元されて水をたたえる福の井
結城秀康
越前松平家宗家初代。
1574(天正2)年2月8日、徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村(現・静岡県浜松市西区雄踏町宇布見)で生誕。
母は、三河国池鯉鮒明神(現・愛知県知立市の知立神社)の社人・永見吉英の娘で、家康の側室・於万の方(長勝院)。
浜名湖の今切軍船兵糧奉行を務めた領主・中村正吉の屋敷で誕生したため、その後も福井藩は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続きました(江戸時代の建物は重要文化財中村家住宅として現存)。
1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いの後、徳川家康と羽柴秀吉が和解条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、本来は家康の跡継ぎでしたが、跡継ぎは以降、徳川秀忠となったのです。
関ヶ原合戦後に、越前北の庄68万石に加増移封されますが、1607(慶長12)年、34歳の若さで病没。
福井県庁(福井城跡)敷地内には秀康の石像が立っています。

福井城跡
名称 福井城跡/ふくいじょうせき
所在地 福井県福井市大手3-17-1
電車・バスで JR福井駅から徒歩8分
ドライブで 北陸自動車道福井ICから約5.3kmで福井市大手駐車場
駐車場 福井市大手駐車場(266台/30分まで無料、以降有料)を利用
問い合わせ 福井市おもてなし観光推進課 TEL:0776-20-5346
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

取材協力/福井県・福井市

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