徳島城(徳島中央公園)
国の史跡である徳島城の城跡。その城跡に日露戦争戦勝記念で明治39年に開園したのが徳島中央公園です。自然を生かした城山ゾーンを中心に、旧徳島公園ゾーン、スポーツゾーン、休養ゾーン、河岸ゾーンの5つのゾーンがあります。徳島城…
国の史跡である徳島城の城跡。その城跡に日露戦争戦勝記念で明治39年に開園したのが徳島中央公園です。自然を生かした城山ゾーンを中心に、旧徳島公園ゾーン、スポーツゾーン、休養ゾーン、河岸ゾーンの5つのゾーンがあります。徳島城…
坂本龍馬は、沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)とともに、1862(文久2)年3月24日の夜、高知城下を出奔し、翌25日に檮原(ゆすはら)に到着。翌26日早朝に檮原を出立、檮原の勤王の志士、那須俊平・信吾父子の道案内で宮野…
檮原町の三嶋神社社前の檮原川にかかる屋根付きの橋が神幸橋(みゆきばし)。三嶋神社の大祭「御神幸(おみゆき)祭り」の行列がこの橋を渡るのが名の由来です。三嶋神社参道は「坂本龍馬脱藩の道」のルートにもなっているのでぜひ歩いて…
聖武天皇の勅願で全国に建てられた国分寺のひとつ、土佐国分寺として741(天平13)年、行基が創建という古刹で、本尊の千手観音像、脇侍の不動明王、毘沙門天ともに行基の作と伝わります。のちに空海が42歳の折に星供の秘法を修め…
高知城は、1601(慶長6)年から10年の歳月を費やし、土佐藩の初代藩主・山内一豊(やまうちかつとよ)が築城した平山城。現存する天守は、1727(享保12)年に城下の大火の延焼で焼失後、1753(宝暦3)年に再建されたも…
土佐出身の板垣退助は、自由民権運動の指導者のひとりで第2次伊藤内閣の内相。明治維新以前は土佐藩の藩士だったこともあって、板垣退助像が高知城の追手門をくぐってすぐの石段の上り口に立っています。
高知城の玄関(大手)にあたる追手門から入城した高知県立図書館前に立つのが、土佐藩の初代藩主山内一豊(やまうちかつとよ)の騎馬銅像、山内一豊像。平成8年9月20日、山内一豊の祥月命日(しょうつきめいにち)に再建除幕されたも…
高知城の本丸にそびえる天守は現存12天守(弘前城、国宝松本城、丸岡城、国宝犬山城、国宝彦根城、国宝姫路城、国宝松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城)のひとつ。望楼型天守の典型で、外観は4重、内部は5階建て…
高知市内中央に位置する高知城は、国の史跡、そして「日本100名城」にも選定されています。書院造の本丸御殿は懐徳館(かいとくかん)として、山内家ゆかりの品や土佐の偉人、歴史資料などを展示、公開。上段の間、二の間、三の間、四…
高知城の本丸と二の丸をつなぐ櫓門が詰門。北面は入母屋造り、廊下門(国の重要文化財)に接続する南面は、本瓦葺きとなり、門内に侵入した敵が簡単に通り抜けられないよう筋違いのからくり門としての役目も果たしています。高知城に現存…
高知城本丸の搦め手(裏側)の防備を固めた門が黒鉄門(くろがねもん)。入母屋造り、本瓦葺きの楼門で国の重要文化財。外観上は漆喰塗の壁が見あたらず、柱、門扉などに多数の小鉄板が打ちつけ、すべて板張りで黒く塗られているので黒鉄…
高知城の表門(大手)にあたる追手門(おうてもん)は、1801(享和元)年築、高知城にある15棟の国の重要文化財のひとつ。入母屋造本瓦葺で石垣を積み上げ、渡櫓をのせた櫓門で、侵入者に三方向から攻撃を加えることができる造り。…
岐阜県大垣市にある昼飯大塚古墳(ひるいおおつかこふん)は、4世紀末(古墳時代中期)に築かれた墳丘長150m(周壕を含めると推定約180m)という東海地方第3位、岐阜県下最大の前方後円墳。後円部・前方部ともに3段築成で、斜…
1559(永禄2)年、遠藤盛数(えんどうもりかず)によって砦が築かれたのが郡上八幡城の始まり。1667(寛文7)年、6代城主・遠藤常友の時代に修復によって、幕府から城郭として認められ改修を行なっています。1755(宝暦5…
岐阜県大垣市墨俣町、長良川西岸に建つ墨俣城(すのまたじょう/戦国時代の地名は洲股)。1561(永禄4)年5月の織田信長による美濃侵攻の際に木下藤吉郎(豊臣秀吉)が短期間で築城したため「墨俣一夜城」の名があります。この一夜…
関ヶ原の合戦では西軍の石田三成の本拠地となった城が大垣城。1535(天文4)年、美濃守護・土岐一族の宮川安定により創建。1596年(慶長元)年に伊藤祐盛が、豊臣秀吉の命により4層4階建ての天守を築いています(天守完成は天…
関ヶ原の合戦で、最初に陣を築いた大谷吉継の陣跡から少し北側の山中に大谷吉継墓(墓碑には大谷吉隆と記されています)があります。車道沿いの平塚為広碑から山中へ徒歩15分、大谷吉継の陣跡からなら5分ほど山道を歩いた場所にありま…
大和国・筒井順慶に仕え後に豊臣秀長、次いで秀保に仕えた島左近。秀保の死後、石田三成は自分の石高の半分にあたる2万石をもって島左近を抱えます。関ヶ原の合戦でもその前日、9月14日に美濃国杭瀬川(杭瀬川の戦い)で中村一栄軍を…