釈迦の入滅(にゅうめつ)後、時が経つにつれ仏教の正しい教えが衰滅することを説いた予言が末法思想(まっぽうしそう)。釈迦の死後、1500年後、または2000年の間が正法(しょうほう)・像法(ぞうほう)の世で、それを過ぎると「末法の世」となり、仏法が衰えて世の中が乱れるという教えです。平安末期がちょうどその時期にあたります。
「末法の世」に阿弥陀如来におすがりする!
仏教では紀元前5世紀頃に釈迦が入滅し、釈迦の死後1500年後(あるいは2000年後)に「末法の世」になるという考えがあり、「末法の世」になれば、争いばかりを起こして邪見がはびこり、仏教がその効力をなくしてしまう時期とされたのです。
日本では平安時代の後期に、ちょうどその「末法の世」が到来するという末法思想が広く信じられるようになり、世の中の荒廃とともに終末論的な思想として捉えられるようになりました。
そんな世相を背景に、貴族も庶民もその「末法の世」の到来に怯(おび)え、浄土信仰の広まりとともに貴族たちは阿弥陀如来(あみだにょらい)を本尊とする仏堂(阿弥陀堂)を建立したのです。
阿弥陀如来は梵語のアミターバ(はかりしれない光を持つ者=光明無量)と、アミターユス(限りない命=寿命無量)に由来します。
つまりは、空間的にも時間的にも無限の力を有する、阿弥陀如来は、まさに根本となる仏(本仏)なのです。
大宇宙には数え切れないほどの仏が現れていると釈迦は説きましたが(十方諸仏)、その本師本仏となるのが阿弥陀如来なのです。
永承7年(1052年)が末法第一年!?
平安時代には阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く浄土思想が普及します。
浄土思想で、浄土といえば一般に阿弥陀仏の「西方極楽浄土」を指します。
釈尊の入滅を『周書異記』に基づく紀元前943年として、末法第一年を平安末期の永承7年(1052年)とする考えから、関白・藤原頼通は、宇治の平等院に「西方極楽浄土」を具現化した鳳凰堂(阿弥陀堂)を建築します。
当然、御本尊は阿弥陀如来。
さらに奥州藤原氏初代・藤原清衡(ふじわらのきよひら)建立の中尊寺金色堂(岩手県平泉町)、浄土真宗の開祖である親鸞が生まれた法界寺(藤原氏の一族である日野家の氏寺/京都市伏見区)の阿弥陀堂、藤原清衡の娘・徳姫が建立の白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう/福島県いわき市)、奥州藤原氏第3代・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が造営に関わった高蔵寺阿弥陀堂(宮城県角田市)と全国に阿弥陀堂が建てられたのです。
また、浄瑠璃寺(京都市木津川市/本尊は阿弥陀如来と薬師如来)には池を中心とした浄土式庭園と平安時代末に京に建立され現存唯一の九体阿弥陀堂がありますが、阿弥陀堂と浄土庭園という組み合わせは、平等院、白水阿弥陀堂にも残されています。
比叡山で天台宗の教学を学んだ法然が、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説いたのは、承安5年(1175年)。
源平の争乱から鎌倉幕府へという激動の時代も、当時の人にとっては「末法の世」に現れた社会現象だったのかもしれません。
大仏も奈良・東大寺の大仏(奈良時代開眼)は盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)ですが、鎌倉・高徳院の大仏(鎌倉時代に開眼)は時代を反映して阿弥陀如来の坐像です。
平安時代末期から鎌倉時代、末法思想を背景に、法然(浄土宗)、そして親鸞(浄土真宗)、一遍(時宗)という宗派が誕生し、浄土思想は今に残る宗派として確立していくのです。
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