桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)の直後、岡崎城近くの、松平家菩提寺・大樹寺に逃げ込んだ松平元康(徳川家康)に対し、住職・登誉天室(とうよてんしつ)が「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)の教えを諭し、以来、この言葉を馬印、座右の銘にして、見事天下を取ったと伝えられています。
徳川家康の天下泰平の出発点が、岡崎・大樹寺に!
江戸に幕府を開いた徳川家康は人生何度も危機的状況に直面していますが、最初の危機で、死をも覚悟したのが、満17歳の時に起こった桶狭間の戦い(現・愛知県豊明市、名古屋市緑区一帯での織田信長と今川義元の戦い)。
当時、松平元康(徳川家康)は、今川家の人質で、文化先進地の駿府(現・静岡市)で英才教育を受け、永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いでは先鋒を任され、鷲津砦と丸根砦の間を果敢に突破し、今川方の鵜殿長照(うどのながてる)が守備する大高城(現・名古屋市緑区)の救援に向かっていました。
今川義元が討たれたことを大高城で知った松平元康(徳川家康)は、生まれ故郷の岡崎(愛知県岡崎市)に退却。
生誕地の岡崎城には今川の残兵がいたため、城の北側にある菩提寺・大樹寺に向かったのです。
大樹寺での寺伝では、永禄3年5月20日(1560年6月13日)、前途を悲観した松平元康(徳川家康)は、松平家の墓前(松平八代墓の墓前)での自害を考えますが、時の住職・登誉天室は、「厭離穢土欣求浄土」(けがれたこの世を離れ、浄土に往生することを願い求める)と言う言葉を授け、名将は自ら死を選ばないと諭したとされています。
寛保3年(1743年)の『柳営秘鑑』(りゅうえいひかん)には三河国の統一の過程、手を焼いた一向一揆との戦いの際に、登誉天室が授けた言葉とも伝えられますが、いずれにせよ、以降、馬印のひとつに採用されています。
この「厭離穢土 欣求浄土」は、寛和元年(985年)に比叡山に隠遁する源信が著した『往生要集』の大文第一が厭離穢土、第二を欣求浄土としているように、この思想が浄土信仰の基本中の基本。
現実の世は、穢(けが)れた世界であるから、この世界を厭(いと)い離れ、次生において清浄な仏の国土に生まれることを願い求めるーという考えで、登誉天室は、浄土宗の基本理念を使って、平和国家建設を諭したのです。
この現代的な解釈は、「穢土」を「戦国の世」、「浄土」を「平和の世」に置き換えて考えると平和国家建設ということになりますが、実際には「死を恐れるな」というメッセージだったのかもしれません。
令和5年のNHK大河ドラマ『どうする家康』では、なぜか登誉天室の代わり当時元康の小姓だった榊原康政(さかきばらやすまさ)が『厭離穢土 欣求浄土』の言葉を伝え、「穢れたこの世を浄土にすることをめざせ」と励まされるシーンが描かれています。
「厭離穢土 欣求浄土」を馬印に、そして戦場での扇には対となる「天下泰平」の文字を入れて、天下泰平、平和な世の実現を目指したということで、その出発点が、永禄3年5月20日(1560年6月13日)の大樹寺にあったということに。
「厭離穢土 欣求浄土」の家康自身がどう解釈したのかは定かでありませんが、天下泰平への行動の背景にはこうした浄土宗の教えがあったことは間違いありません。
その時歴史は動いた! 格言・名言の誕生地(3)厭離穢土 欣求浄土|徳川家康 | |
所在地 | 愛知県岡崎市鴨田町広元5-1 |
場所 | 大樹寺 |
電車・バスで | 名鉄名古屋本線東岡崎駅から名鉄バス大樹寺方面行きで15分、大樹寺下車、徒歩8分 |
ドライブで | 東名高速道路岡崎ICから約6.5km |
駐車場 | 20台/無料 |
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