宇佐神宮、石清水八幡宮とともに日本三大八幡宮のひとつに数えられる福岡市に鎮座する古社が筥崎宮(はこざきぐう)。平安時代初期の延喜21年(921年)、醍醐天皇が神託により大陸・玄海灘に面した地に、国家鎮護のため壮麗な社殿を建立。延長元年(923年)に現社地に遷座しています。延喜式神名帳にも名神大社と記載され、筑前国一之宮になっています。
日本三大八幡宮の一つで歴史と伝説の宝庫
筥崎(箱崎)という名前は応神天皇が生まれたときの胞衣(なえ)を箱に入れてこの地埋めたことから付いた地名。
収めた印に植えられた松が神木の筺松と伝えられています。
祭神には筑紫国蚊田(かだ・現在の福岡県宇美町)で生まれた応神天皇(おうじんてんのう)を主祭神に、神功皇后(じんぐうこうごう)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祀っています。
元寇の際には亀山上皇(かめやまじょうこう)が「敵国降伏」を祈願していますが、文永11年(1274年)の文永の役で博多は火の海となり、この筥崎宮の社殿も焼失。
その時吹いた神風(暴風雨)により元・高麗連合軍を撃退したことから、厄除け・勝運にご利益大とされています。
中世には足利尊氏(あしかがたかうじ)、大内義隆(おおうちよしたか)、小早川隆景、豊臣秀吉などの武将が参詣し隆盛。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は九州平定後、筥崎宮に滞陣して「太閤町割」といわれる博多の町割りを行ない、黒田官兵衛らがそれを実行しています。
その時、秀吉が催した箱崎茶会に随行したのが千利休で、境内には千利休奉納と伝わる石灯籠(国の重要文化財)も残されています。
石灯籠には奉納時よりもかなり前の南北朝時代、観応元年(1350年)の銘が入っています。
本殿、拝殿、楼門、一の鳥居は国の重要文化財
現存する本殿、拝殿は天文15年(1546年)、大内義隆が再建したもので、国の重要文化財。
楼門は文禄3年(1594年)、筑前国領主・小早川隆景が建立、一の鳥居は慶長14年(1609年)、福岡藩初代藩主の黒田長政による建立で、ともに国の重要文化財。
楼門は「日本三大楼門」にも数えられています。
1月3日の『玉取祭(玉せせり)』と9月12日〜18日の『放生会大祭』は福岡を代表する祭りとなっています。
『放生会大祭』は神仏習合時代の仏教行事の名残です。
筥崎宮から箱崎漁港に向かって参道が延びていますが、港湾化が進む以前には社前には美しい海と浜が広がっていました。
春分・秋分の日に一番近い「戊」(つちのえ)の日に行なわれる『社日祭』は、海岸の真砂をお潮井といい、これを「てぼ」といわれる竹かごに納めて持ち帰り玄関口に備える行事。
お潮井は除災招福に効果があるとされる砂ですが、社日祭のときに採取する砂はとくに効能が高いといわれています。
明治の神仏分離までは、五智輪院弥勒寺が神宮寺
明治初年の神仏分離、廃仏毀釈まで、筥崎宮は神仏習合で、五智輪院弥勒寺を神宮寺に、本地仏(神道の八百万の神々は、実は様々な仏の仮の姿という本地垂迹説で、本来の姿である仏)となる阿弥陀如来を祀る本地堂と護摩堂が本社の背後にありました。
また、恵光院、赤幡坊、蓮城坊、円台坊、智禅坊、学頭坊、勧進坊、一乗坊、一御燈坊、二御燈坊、勝楽寺など数多くの社坊がありましたが、現存するのは歴代座主の墓所の恵光院、そして勝楽寺の2ヶ寺のみで、廃絶された寺の仏像などは恵光院にまとめられています。
筥崎宮 | |
名称 | 筥崎宮/はこざきぐう |
所在地 | 福岡県福岡市東区箱崎1-22-1 |
関連HP | 筥崎宮公式ホームページ |
電車・バスで | 福岡市営地下鉄箱崎宮前駅から徒歩3分 |
ドライブで | 福岡都市高速東浜ランプから約1km |
駐車場 | 200台/有料 |
問い合わせ | 筥崎宮社務所 TEL:092-641-7431 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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