二度にわたる博多湾への元寇(げんこう)のうち、文永の役後の建治2年(1276年)、鎌倉幕府執権・北条時宗が元軍の再襲来に備えて九州の諸武将に命じて築かせた石築地が元寇防塁。福岡市早良区の西新地区(にしじんちく)は、当時、百道原と呼ばれた地で、文永の役(1274年)では元軍がこの百道浜に上陸しています。
文永の役では一帯が主戦闘地だった
元寇防塁は、博多湾岸の東西に20kmにも渡って延び、9ヶ所ほどが現存(国の史跡)しますが、西新地区(福岡市早良区)の福岡タワーと福岡市博物館の南、西南学院大学体育館横には復元された防塁と、元寇神社が鎮座しています。
最初の元寇(蒙古襲来・もうこしゅうらい)となる文永の役(1274年)では元軍がこの百道浜(ももちはま)に上陸し、祖原、鳥飼、赤坂一帯が戦場となっているため、鎌倉幕府がこの西新地区を防御の拠点と考えたことはよくわかります。
文永11年10月20日(1274年11月19日)、元軍の主力部隊となる蒙古・漢軍は百道原に上陸、総大将・少弐景資率いる日本軍と激戦を展開し、日本軍の奮戦で撃退しています(鳥飼潟の戦いが、文永の役の主戦闘といわれています)。
元軍の上陸を許し、博多を主戦場とした文永の役の経験から、海岸沿いに強固な防塁が築かれたのです。
二度目の侵攻となる弘安4年(1281年)の弘安の役では、元軍は博多湾岸からの上陸を断念し、志賀島に上陸しています。
西新地区(西新7丁目)の土塁は、大正9年に西新尋常小学校の生徒が発掘したもので、昭和44年の本格的発掘調査後に整備復元され、見学できるようになっています。
防塁は地区によって築き方が異なり、西新地区では、海岸の砂丘の上に粘土を敷くという基盤工事が行なわれています。
高さは2.5m~3mほどで、基部の幅は3.4mと広いのが特徴。
西新地区が都市化したきっかけは、江戸時代の紅葉八幡宮(もみじはちまんぐう)が橋本村(旧社地には橋本八幡宮が創建)から西新百松原の地へ遷座したこと。
紅葉八幡宮は藩主の崇敬も篤く、門前町として多くの人が暮らすようになったのです。
西新地区には、昭和19年、『サザエさん』の原作者・長谷川町子が東京から疎開しましたが、その際に百道の海岸を散歩しながら、サザエ、カツオ、ワカメ等の登場人物を考案したことから、「サザエさん発案の地」にもなっています。
画像協力:福岡市
元寇防塁跡(西新地区) | |
名称 | 元寇防塁跡(西新地区)/げんこうぼうるいあと(にしじんちく) |
所在地 | 福岡県福岡市早良区西新7-4-66 |
関連HP | 福岡市公式ホームページ |
電車・バスで | 福岡市営地下鉄藤崎駅から徒歩9分 |
ドライブで | 福岡都市高速百道ランプから約1km |
駐車場 | 百道中央公園駐車場(20台/無料)、駐車場から徒歩10分 |
問い合わせ | 福岡市経済観光文化局 TEL:092-711-4666 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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