福岡県福岡市東区名島、博多湾の東部、海に面した名島(昭和40年代までは島でした)に築かれた中世の城が名島城。その城跡一帯は名島城址公園として整備され、その横に名島神社が鎮座しています。城跡の大部分が市街化され、天守台の跡、名島神社周辺に城跡の名残りを残すだけとなっています。
小早川水軍の根拠地ともなった戦国時代の城
名島の歴史は古く、記紀の時代にまで遡ります。
伝説によれば、神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓征伐の船出の際に軍勢の名を呼んだことが地名の由来とも。
三韓征伐の後、神功皇后は大願成就として当地に宗像三女神を奉納。
それが現在の名島神社の起こりとで、もとは名島城内に鎮座していましたが、天正年間(1573年〜1592年)、豊臣秀吉の命により浜側に移転。
名島城は、天文年間(1532年~1555年)、大友氏の家臣で立花山城(たちばなやまじょう/現・福岡市東区、福岡県新宮町、久山町)の城主・立花鑑載(たちばなあきこと)が築城。
天正14年(1586年)、豊臣秀吉の九州平定の後、立花家の当主・立花宗茂は柳川城(柳河城)に移り、小早川隆景(こばやかわたかかげ)・小早川秀秋が入城し、立花山城の出城として機能した名島城を大改修して居城にしています。
毛利水軍の中核を担った小早川水軍が利用できる湊を有し、近世的な石垣と天守が築かれていました。
博多の豪商・神屋宗湛(かみやそうたん)の『宗湛日記』には、城の完成に際し、神屋宗湛や島井宗室(しまいそうしつ)らが築城を祝って名島城で茶会を開いたと記されています。
文禄元年(1592年)、文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)の際には、名護屋城へ向かう途中の豊臣秀吉が淀殿を伴い、名島城に宿泊、茶会を催してもいるので御殿もあったのだと推測できます。
秀吉の朝鮮出兵に際しては、名護屋城への補給基地としても機能。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの功により転封となった初代福岡藩主・黒田長政も、父・黒田如水(黒田官兵衛)とともにこの城に入城していましたが、慶長12年(1607年)、商都・博多に近い福崎(現在の福岡市城内)に近世的な城郭を築いたため廃城となっています。
往時には、水軍の拠点として船が出入りし、物資が搬入できるように海水を引き入れた堀割と空堀がありましたが、新城建設時に石や門などを転用(「名島引け」と通称されています)。
昭和40年代に名島の北側と東側が埋め立てられたため、陸続きとなり、天然の要害という雰囲気も失われています。
名島城址公園には転用を免れて残された石垣(大手石垣遺構)と、「名島城址碑」が立つのみとなっています。
周辺には海岸に露出する珪化木で国の天然記念物「名島の檣石」(ほばしらいし=帆柱石)、神功皇后が祝宴をあげたと伝わる砧板瀬(まないたぜ)など、神功皇后伝説の遺跡も残されています。
崇福寺の唐門、舞鶴公園(福岡城跡)の名島門は、名島城の遺構と伝承。
名島城(名島城址公園) | |
名称 | 名島城(名島城址公園)/なじまじょう(なじまじょうしこうえん) |
所在地 | 福岡県福岡市東区名島1-15 |
関連HP | 福岡市公式ホームページ |
電車・バスで | 西鉄貝塚線名島駅から徒歩15分 |
ドライブで | 福岡都市高速名島ランプから約300m |
駐車場 | 名島神社駐車場(有料)を利用 |
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