抜弁天(厳嶋神社)

抜弁天(厳嶋神社)

東京都新宿区余丁町にある源義家(八幡太郎)創建という古社、厳嶋神社(いつくしまじんじゃ)は、抜弁天(ぬけべんてん)という通称で有名。源義家が苦難を切り抜けたという伝承と、境内参道が南北に通り抜けできることから「抜弁天」と通称され、江戸六弁天にも数えられています。新宿山ノ手七福神の弁財天を祀っています。

元禄時代には一時「大久保の犬御用屋敷」があった!

抜弁天(厳嶋神社)
境内には南北に抜ける参道が
抜弁天(厳嶋神社)
扁額にも抜弁天と記されています

応徳3年(1086年)、鎮守府将軍・源義家(みなもとのよしいえ=八幡太郎)が後三年の役(1083年~1087年)で奥州平定に向かう途中、富士山を眺望したこの地に宿営。
帰途、戦勝のお礼に、厳島神社から祭神を勧請して創建したと伝えられています。

抜弁天(厳嶋神社)のある余丁町からその東側、新宿区若松町一帯は、徳川綱吉が貞享4年(1687年)に発布した「生類憐れみの令」で、大久保の犬御用屋敷が築かれた地。

中野、四谷などとともに元禄8年(1695年)、大久保にも総面積2万3000坪の犬小屋が築かれ、4万匹以上の犬を収容していますが、手狭になったため、元禄10年(1697年)に閉鎖されています。
犬小屋が築かれた時代には、その敷地内に入ったため、一時、西向天神社の境外末社となっていました。

江戸時代の地誌『大久保絵図』(安政4年)には、別当二尊院・抜弁天と記されています。
別当とは神社を管理する寺で、雨宝山二尊院は、愛宕にあった円福寺(愛宕神社の別当寺)の塔頭・金剛院に末寺で御府内八十八ヶ所でしたが、明治の神仏分離、廃仏毀釈で廃寺になっています。

江戸六弁天は、本所(一ツ目弁天・江島杉山神社/墨田区千歳1-8-2)、洲崎(浮弁天州崎神社/江東区木場6-13-13)、滝野川(岩屋弁天/弁天の滝、松橋弁天洞窟の現存せず、音無もみじ緑地になっています。北区滝野川3-88-17の金剛寺に弁天堂が)、冬木(冬木弁天堂宝珠山 冬木辯天堂/江東区冬木22-31)、上野(不忍池弁天堂/台東区上野公園2-1)、東大久保(抜弁天厳島神社)の6ヶ所。

抜弁天(厳嶋神社)
抜弁天(厳嶋神社)
源義家の伝承
摂関政治から院政時代に移り変わる時代の、新興勢力の代表ともいえる源義家ですが、源頼朝が義家の曽孫にあたるため、関東には源義家伝承の地が各地にあり、抜弁天もそのひとつ。
関東地方に数十ヶ所もある伝承ですが、平安末期から鎌倉時代に創られたものが多く、史実がどれだけあるのかは定かでありません。
抜弁天(厳嶋神社)近くには鎌倉街道が通っていますが、このことが源義家伝承を生んだのかもしれません。
抜弁天(厳嶋神社)
名称 抜弁天(厳嶋神社)/ぬけべんてん(いつくしまじんじゃ)
所在地 東京都新宿区余丁町8-5
電車・バスで 都営地下鉄大江戸線若松河田駅から徒歩10分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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