江戸時代初期に織田氏によって造られた小幡藩2万石の藩邸に付属の大名庭園(国の名勝)が群馬県甘楽町(かんらまち)小幡にある楽山園(らくさんえん)。築庭は織田信長の次男である織田信雄(おだのぶかつ/大坂冬の陣の直前に徳川方へ転身)で、上州(群馬県)では現存する唯一の大名庭園となっています。
群馬県内唯一の大名庭園
慶長19年(1614年)の、一時は豊臣方の総大将と目されながら、大坂冬の陣の直前に徳川方へ転身した織田信雄は、元和元年(1615年)7月23日、家康から大和国宇陀郡、上野国甘楽郡など5万石の大名に。
後に四男・織田信良に小幡藩2万石を分知して(小幡藩を立藩)、自らは京に隠居していますが、隠居前に築いたのが楽山園。
広い昆明池の周囲に48のいろは石を配し、庭園の西側にある雄川(おがわ)を挟んで紅葉山(もみじやま)、南の熊倉山と連石山(れんせきざん)を借景として取り込むという心憎い庭園で、現在では「梅の茶屋」や全国的にも珍しい五角形の形状をした「腰掛茶屋」などを含め、江戸時代当初の姿への復元されています。
複数の茶屋があるのも織田信雄ならでは。
信長の弟・織田長益は、利休十哲の一人。
小牧・長久手の戦いなどでは織田信雄の配下に。
大坂夏の陣の際に豊臣方を離れ、信雄同様に京都で隠棲し茶の湯に専念しています。
池泉回遊式の借景庭園は、戦国武将庭園から「大名庭園へと移行する過渡期の庭園と位置付けられ、京都の桂離宮と同じ特色が。
その名は、「知者ハ水ヲ楽シミ、仁者ハ山ヲ楽シム」(子曰、知者樂水、仁者樂山)という『論語』雍也(ようや)第六の二十三に由来しています(知恵のある人は水のように自在に動き、徳の高い人は山のように動じないという意=古から知者も仁者も自然の山水を楽しんできた)。
信長の子として生まれ、翻弄されながらも戦乱の世を生き抜き、ようやく訪れた天下泰平の世に築いた庭園という織田信雄の気持ちが伝わる名称です。
群馬県では初の名勝指定の庭園となっています。
隣接する小幡城と呼ばれた藩邸(御殿)は(庭園は本来、藩邸に付随したものです)、陣屋造りだったと伝えられますが、部屋の位置などが平面表示されています。
楽山園 | |
名称 | 楽山園/らくさんえん |
所在地 | 群馬県甘楽郡甘楽町小幡648-2、650-1 |
関連HP | 甘楽町公式ホームページ |
電車・バスで | 上信電鉄上州福島駅からタクシーで10分 |
ドライブで | 上信越自動車道富岡ICから約4km |
駐車場 | 29台/無料 |
問い合わせ | 楽山園 TEL:0274-74-4795 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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