国定忠治の墓(養寿寺)

江戸時代侠客、国定忠治(くにさだちゅうじ)。本名は長岡忠次郎で、上野国佐位郡国定村(群馬県伊勢崎市国定町)出身のため、国定忠治と呼ばれています。その墓があるのは故郷、伊勢崎市国定町の金城山養寿寺。

「赤城の山も今夜を限り」の新国劇で有名になった侠客

『絵入国定忠治実記』(精文堂/明治21年)

長岡忠次郎(国定忠治)は、上野国佐位郡国定村の養蚕などを行なう豪農の家に、江戸時代後期の1810(文化7)年に生誕。
1819(文政2)年、父・長岡与五左衛門が死去したため、家督は弟の友蔵が継ぎ、忠次郎は無宿人に。
上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市宮城地区)の博徒・大前田英五郎(おおまえだえいごろう=新門辰五郎、江戸屋寅五郎とともに「関東の三五郎」)の縄張りを受け継いで親分となり、島村伊三郎と対峙。
その後、国定忠治は島村伊三郎の縄張りを荒らして捕縛。
1834(天保5)年に島村伊三郎を殺して縄張りを奪うと、信州へと逃亡(軽井沢の離山に隠穴の伝説もあります)。
上州に戻ると、玉村京蔵・主馬兄弟と対立し両名を殺害。
その後も任侠沙汰を繰り返していますが、嘉永3年8月24日(1850年9月29日)に捕縛され、大戸関所の関所破りにより磔(はりつけ)の刑で、大戸処刑場で処刑されています。

享年41歳。
戒名は「長岡院法誉花楽居士」。
国定忠治の頭部を妾・菊池徳が国定村有志と大戸処刑場から奪い返し、長岡家菩提寺の養寿寺に埋葬。
墓石は忠治33回忌にあたる明治15年建立。
「長岡忠治之墓」の碑は、明治42年12月21日に長岡利喜松・波三郎・石次郎により建立されたもの。

天保の大飢饉で農民を救済した侠客としても知られ、地元にはその時の米びつなども残されています。
群馬県伊勢崎市曲輪町の善應寺には、国定忠治の妾・菊池徳が建立の「情深墳」があり、忠治の戒名を「遊道花楽居士」として祀っています。
また、忠治の13回忌にあたる1861(文久元)年、大戸刑場跡に忠治地蔵が建立されています。

ちなみに「赤城の山も今夜を限り、生れ故郷の國定の村や、縄張りを捨て国を捨て、可愛い子分の手めえ達とも、別れ別れになる首途(かどで)だ」は、大正8年、名古屋・末広座で上演し大ヒットした『国定忠治』の名セリフ。
『月形半平太』、『大菩薩峠』とともに、新国劇の代表作となり、昭和30年代までは映画化され、阪東妻三郎、辰巳柳太郎、高田浩吉、片岡千恵蔵、三船敏郎などのトップスターが国定忠治を演じています。

また、東海林太郎が歌う『赤城の子守唄』(昭和9年)、『忠治子守唄』(昭和13年)、『名月赤城山』(昭和14年)、『さらば赤城よ』(昭和22年)は、いずれも国定忠治を歌ったもの。
空前のヒットを記録した『赤城の子守唄』(昭和9年)は、松竹制作の映画『浅太郎赤城の唄』(高田浩吉主演/昭和9年公開)の主題歌。

国定忠治の墓(養寿寺)
名称 国定忠治の墓(養寿寺)/くにさだちゅうじのはか(ようじゅじ)
Kunisada Chūji’s grave,Yojyuji Temple
所在地 群馬県伊勢崎市国定町1-247
電車・バスで JR両毛線国定駅から徒歩15分
ドライブで 北関東自動車道太田藪塚ICから約4km
駐車場 10台/無料
問い合わせ 養寿寺 TEL:0270-62-2306
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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