生石神社

生石神社

横6.4m、奥行き7.2m、高さ5.7mの神殿を横に倒したような巨大な石造物「石乃宝殿」(いしのほうでん)が兵庫県高砂市の生石神社(おうしこじんじゃ)の御神体。巨大石造物は、製作年代、作者、目的ともに不明で、鹽竃神社(宮城県)の塩釜、霧島神宮(宮崎県)の天逆鉾(あめのさかほこ)とともに「日本三奇」のひとつ。

「日本三奇」に数えられる巨大な石造物が御神体

生石神社

大穴牟遅(おおあなむち=大国主神)と少名毘古那(すくなひこな)が国土を鎮めるために石の宮殿を造営しようとしたとの伝承が残され、「石乃宝殿」と呼ばれているのです。

奈良時代初期に編纂された『播磨国風土記』(はりまのくにふどき)には弓削大連(ゆげのおおむらじ=物部守屋)が造ったと記されていますが、平安時代編纂の『延喜式神名帳』などには、この石造物や生石神社の記載はありません。

『播磨国風土記』にすでに記されることから、8世紀初期には6~7世紀頃に人の手で造られたと考えられていたことがわかります。

竜山石の岩盤を掘り込んだもので、一帯は古墳時代から現代に至るまでの採石遺跡。
巨石の重さは推定465トン。
水を溜めたなかに浮いているように見えるので別名「浮石」とも呼ばれています。

石は仁徳天皇陵などの石棺にも利用される竜山石(たつやまいし/地元では宝殿石と通称)という流紋岩質溶結凝灰岩で古代には石棺に、近世には姫路城の石垣などに利用されています。
考古学的には、益田岩船(ますだのいわふね=奈良県橿原市)にも似た特徴があるので、7世紀頃の家形石棺または横口式石槨(よこぐちしきせっかく=石で造った、棺を入れる外箱)の造りかけではないかとも推測されています。

竜山石の採石は古墳時代に始まり、前期古墳時代にはの石室の材として、古墳時代中期には巨大古墳に採用された長持形石棺(ながもちがたせっかん)の石材に、後・終末期には家形石棺の石材に活用されているのです(遠方にも運ばれ、奈良時代、恭仁宮=現・京都府木津川市の礎石建物にも使われています)。

江戸時代には西国の諸大名も参詣、見物

天正7年(1579年)、羽柴秀吉の播磨攻め(三木合戦)の際、神吉城(かんきじょう/現・加古川市にあった中世の城)攻略のために陣所にすることを望みましたが、神社(当時は神仏習合で生石権現)がそれを拒んだため社殿が焼き払われています(生石権現の神主が神吉城主・神吉頼定の弟だったと伝えられています)。

焼け残った「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と銘のある梵鐘は、関ヶ原合戦の際に西軍・大谷吉継(おおたによしつぐ)が陣鐘としましたが、合戦後に徳川家康が美濃国赤坂(岐阜県大垣市赤坂町)の安楽寺に寄進しています。

「宝殿」の呼び名が付いたのは江戸時代から。
江戸時代の生石権現はすでに観光名所となってに賑わいをみせ、西国の諸大名も参詣しています。
シーボルトも訪れ、その著『NIPPON』に精緻なスケッチを残しています。
周囲の岩盤と巨石との間は、大人が1人通れるほどの幅で、一周することができます(拝観料が必要)。

「石の宝殿及び竜山石採石遺跡」として国の史跡にもなっています。

生石神社
名称 生石神社/おうしこじんじゃ
所在地 兵庫県高砂市阿弥陀町生石171
関連HP 生石神社公式ホームページ
電車・バスで JR宝殿駅からタクシーで5分または徒歩25分。山陽電鉄伊保駅から徒歩35分
駐車場 100台/無料
問い合わせ 生石神社 TEL:0794-47-1006/FAX:0794-48-3232
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
益田岩船

益田岩船

奈良県橿原市の南端の岩船山(130m)の頂上近くにある古代の巨大石造物のひとつが益田岩船(ますだのいわふね)。東西11m、南北8m、高さ4.7mの花崗岩の巨岩で、重量は推定800トンとも。哲学者・梅原猛は、著書『飛鳥とは何か』で「(飛鳥で)

 

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