篠山盆地(兵庫県篠山市)の中央部、笹山とよばれる小丘陵に築かれた平山城が、篠山城(ささやまじょう)。徳川家康が築城の名人・藤堂高虎(とうどうたかとら)ら5人を普請奉行に任じ、池田輝政、福島正則、毛利秀就、山内忠義ら西国大名20名を動員して天下普請で、慶長14年(1609年)に完成。国の史跡、日本100名城にも選定。
徳川家康が大坂を睨んで山陰道の要衝に築いた名城
篠山は山陰道の要衝に位置したため、関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康も、大坂と西国大名の分断を図るため、非常に重視した場所だったのです。
徳川家康は松平康重(まつだいらやすしげ=駿河国三枚橋城主・松平康親の長男、徳川家康の落胤とする説も)を、常陸国・笠間城から八上城(篠山城の南東にあった戦国時代の城)へ移封。
西国大名に対する備えとしての新城建設に際し、家康はわざわざ築城地周辺の絵図を取り寄せ、自らチェックしたというほど念入りだったのです。
石垣に築いた大名が記した刻印の数も150種に及び、大坂城、名古屋城に次ぐ数となっています。
内堀内に本丸と二の丸を設け、東・北・南に馬出を設けていました。
天守はもたず、弓、鉄砲を放つ隠狭間を多く造るという近世の城郭としては非常に実戦的な城で、現在も防備の要である見事な石垣と南と東の馬出が現存しています。
天守を築かなかったのも当然、家康の命で、家康には籠城戦の場合にかえって天守が邪魔になると判断したのです。
つまり、西国諸大名の財力を削ぐために突貫工事で築城し、しかも対豊臣残党を考えて実戦的な城とするという家康らしい城となっているのです。
城下を通る街道が、カギ型やT字型に屈折しているのも実戦を考えての配慮。
寺院は城下の出入口に配されています。
大書院は往時のままに再建
明治6年の太政官布達によって篠山城は取り壊しが決定し、門や櫓は競売され撤去されています。
唯一残っていた築城と同時に建てられた大書院は明治以降は篠山小学校として活用されていましたが、昭和19年1月6日に失火で焼失してしまいました。
平成12年4月、篠山市民の熱い願いと寄付により、その大書院が往時のままに再建。
京・二条城の二の丸御殿に匹敵する大規模な木造建築で、一大名の書院としては破格の規模と古式の建築様式を備えたものとなっています。
上段の間には江戸時代初期の狩野派絵師が描いた屏風絵を障壁画として転用し、往事の雰囲気を再現しています。
また、展示室では篠山城模型・パネルを展示し、篠山城を解説。
『正保城絵図』に見る 篠山城(丹波笹山城)
正保元年(1644年)、徳川幕府が諸藩に命じて作成させた城と城下町の絵図が『正保城絵図』で、諸藩に基本は1城だった当時の藩庁の機密が、この城図によって幕府が把握できるという仕組みです。
篠山城 | |
名称 | 篠山城/ささやまじょう |
所在地 | 兵庫県篠山市北新町2-3 |
関連HP | 篠山市観光情報サイト |
電車・バスで | JR篠山口駅から神姫バス篠山行きで15分、二階町下車、徒歩5分 |
ドライブで | 舞鶴若狭自動車道丹南篠山口ICから約5.3km |
駐車場 | 三の丸西駐車場(400台/有料) |
問い合わせ | 篠山城大書院 TEL:079-552-4500/FAX:079-552-5110 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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