兵庫県豊岡市出石町、有子山(城山/標高321.3m)にある中世の山城の跡が、有子山城(ありこやまじょう)。天正2年(1574年)、但馬守護・山名祐豊(やまなすけとよ)が築いた城で、慶長9年(1604年)、小出吉英が近世城郭として山麓に出石城を築き、廃城になっています。出石城とともに続日本100名城に選定。
但馬守護・山名祐豊が築き、羽柴秀吉の攻城戦で落城
山名氏は、室町幕府において四職家のひとつとして君臨し、当時の最大級の大名家。
南北朝時代には一族が但馬、因幡、丹波、美作など11ヶ国の守護職を兼帯して、「六分一殿」(ろくぶんのいちどの)といわれていました。
応仁の乱では、山名宗全(持豊)が西軍の総帥に。
なかでも但馬は、南北朝時代以来の山名氏の本拠で、戦国時代まで一貫して山名氏が守護職を務めています。
永禄12年(1569年)、織田信長の但馬侵攻で、山名氏歴代の居城とした此隅山城(このすみやまじょう/出石神社の北にある標高140mの此隅山)が羽柴秀吉軍の包囲を受けて落城。
天正2年(1574年)、但馬守護・山名祐豊(やまなすけとよ)は、此隅山城を諦めて、城下との比高が300mほどある有子山(城山)に移し、有子山城を築城。
山頂の台地に主郭(詰の城)を築き、山麓に平常時住まいする居館と但馬守護所を構えていました。
天正8年(1580年)、山名堯熙(やまなあきひろ=山名祐豊の三男)の治世に(隠居した山名祐豊が実権を握っていたとも)、織田信長の中国支配の命で但馬に侵攻した羽柴秀吉軍に囲まれ、落城。
山名堯熙は、因幡国(現・鳥取県)に逃れ、後に羽柴秀吉の配下になっています。
豊臣政権下では、播磨・但馬の2ヶ国を領有した羽柴秀長(はしばひでなが=豊臣秀吉の異父弟)が、姫路城とともに有子山城を居城に。
関ヶ原の合戦後の慶長9年(1604年)、出石藩主となった小出吉英(こいでよしひで)が山上の主郭などを破却し、山麓の館および郭部分を近世城郭の出石城へと改めています。
出石城は山麓側から三の丸、二の丸、本丸、稲荷丸が階段状に縄張りされていますが、最上部の稲荷丸(有子山稲荷神社が鎮座)から石段を上る道が、有子山城本丸へと通じる登城路です。
登城口の有子山稲荷神社から山頂までは1時間程度ですが、前半は尾根に沿った急な山道で、滑りやすい部分もあり、ハイキングシューズが必要。
熊が出没することもあるので、熊除けの鈴、さらに登山道にはロープが設置された場所もあるので、軍手などの持参が賢明です。
主郭(山頂部分)には野面積み(のづらづみ=自然石をそのまま積み上げた石垣)の石垣も現存し、主郭から東に続く千畳敷(東西120m、南北50m)は、但馬地域の城郭では最大の曲輪となっています。
稲荷丸にある有子山稲荷神社は、有子山城を築いた但馬守護・山名祐豊が、城の鎮守として京の伏見稲荷から分霊を勧請したもので、出石城構築の際、小出吉英が稲荷丸に遷座したもの。
山麓の出石城とセットで、出石城・有子山城というかたちで、続日本100名城に選定されるほか、山名氏城跡此隅山城跡・有子山城跡(やまなししろあとこのすみやまじょうあとありこやまじょうあと)というかたちで、国の史跡に。
有子山城 | |
名称 | 有子山城/ありこやまじょう |
所在地 | 兵庫県豊岡市出石町伊木 |
関連HP | 出石まちづくり公社公式ホームページ |
電車・バスで | JR豊岡駅から全但バス出石行きで30分、出石営業所下車 |
ドライブで | 北近畿豊岡自動車道八鹿氷ノ山ICから約10km |
駐車場 | 西の丸市営駐車場(有料)、大手前駐車場(有料) |
問い合わせ | 但馬國出石観光協会 TEL:0796-52-4806 |
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