広島県三原市にある戦国時代から江戸時代の城跡が三原城。永禄10年(1567年)頃、小早川隆景が築城を開始し、小早川水軍の拠点として機能していました。三原市の『やっさ祭り』で披露される『やっさ踊り』は、築城完成を祝って城下の人たちが踊ったのが始まりと伝えられています。続日本100名城に選定。
小早川水軍の拠点として機能した「浮城」
築城当初は要害的な存在でしたが、小早川隆景は、次第に強固な城として整備し、天正8年(1580年)から10年をかけて梯郭式の縄張りに変更して、居城を三原城に移しています。
豊臣秀吉から筑前国を加増されると本拠を名島城(福岡県福岡市)に移していますが、隠居後には再び三原に戻り、城を修築。
ついに城郭と軍港の一体化が完成しています。
関ヶ原の合戦後には福島正則(ふくしままさのり)が安芸国・備後国に入封。
その際、福島正則は広島城に入り、三原城には養嗣子・福島正之(ふくしままさゆき)が入城しています。
元和5年(1619年)、福島正則が改易となった後には、浅野長晟(あさのながあきら)が広島藩主となったため、その筆頭家老・浅野忠長が三原城に入っています。
広島藩の支城として幕末まで城として機能しましたが、明治維新で城跡は帝国海軍の鎮守府(西海鎮守府)となり、主な建物は破却。
さらに明治27年、山陽鉄道三原駅建設の際に、城地の大部分は駅用地に転用されています(現在は三原駅の高架部分が本丸および天主台跡を貫いています)。
石垣は、糸崎港建設の資材に転用されたため、ほどんど残されていません。
現存する現存している天主台跡とその周囲の内堀一帯が国の史跡となっています。
天守台跡が残されていますが、天守は建ったことがなく、3基の二重櫓を連結させて代用天守としていたと推測されています。
往時には瀬戸内海に向かって船入りがあり、満潮時には海に浮かんだように見えたのだといいますが、その面影はほとんどありません。
一国一城令後も存続した三原城
徳川家康の深謀遠慮から定められた元和元年(1615年)の一国一城令で、各藩は藩庁以外の城を破却することが命じられましたが、福島正則は幕府の許可を得て「三原要害」と称して存続させています。
江戸時代初期には広島城を藩庁にして、三原城(三原市)、三吉城(三次市)、東城城(庄原市東城町)、鞆城(福山市鞆町)、神辺城(福山市神辺町)と5つの支城がありましたが、三原城を除いて一国一城令で破却されています。
浅野家が藩主になった後も、三原城と支城として残すことができたのは、外様大名ながら浅野家は早くから徳川家とも親交があり、関ケ原合戦では東軍に属したからだと推測されます。
しかも一国一城令が出された元和元年(1615年)には、徳川家康の娘・振姫(ふりひめ)が浅野長晟に嫁いでおり、徳川家と浅野家は姻戚関係となっていたのです。
ちなみに広島県には名城が数多く、日本100名城に選定されるのも広島城(広島市/広島藩の藩庁)、吉田郡山城(安芸高田市/一国一城令で破却)、福山城(福山市/備後福山藩の藩庁)の3城。
続日本100名城にも三原城のほか、同じ三原市の新高山城(三原城へ移るまで小早川氏の本拠)が選定されています。
三原城 | |
名称 | 三原城/みはらじょう |
所在地 | 広島県三原市城町 |
関連HP | 三原観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR山陽本線三原駅から徒歩すぐ |
ドライブで | 山陽自動車道三原久井ICから約10km |
駐車場 | なし/周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 三原市生涯学習課 TEL:0848-64-2137 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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