広島県広島市中区大手町1丁目、原爆ドームの南東、元安橋近くに立つのが動員学徒慰霊塔。広島県動員学徒犠牲者の会が昭和42年7月15日に建立したもの。軍都として軍需産業なども多かった広島市では、労働力の不足を補うため多数の学徒が勤労奉仕に動員され、原爆や空襲の犠牲となっています。
空襲などの犠牲になった動員学徒を慰霊する塔
政府は戦時下の労働力不足を補うため、昭和19年8月に学徒勤労令、女子挺身隊勤労令を発令し、勤労即教育」(動員されて働くことは、学問するのと同じ)という理念のもとで、中学生以上の生徒は軍需工場などでの勤労奉仕が強制され、その結果、空襲などで若く尊い命が犠牲となったのです。
昭和19年11月には、空襲による延焼防止で、民家などの建物を取り壊し、防火帯をつくる建物疎開作業にも、多くの生徒が動員されたのです。
昭和20年3月18日には決戦教育措置要綱が発表され、現在の小学生以外はすべて休校になって、軍需産業や食糧増産に駆り出されました。
広島市内でも被爆当日、建物疎開作業を行なっていた国民学校高等科以上の8000人以上の生徒のうち、なんと6300人が原爆の犠牲となっています。
勤労奉仕に動員され戦禍に倒れた学徒と、原爆の犠牲者を含めた約1万人の学徒の霊を慰めるために建立された塔。
平和の女神像と8羽のハトを配した高さ12mの有田焼の陶板仕上げで、末広がりの5層の塔の中心柱に慰霊の灯明が設置されています。
塔の左右にある4枚のレリーフは「食糧増産作業」「女子生徒の縫製作業」「工場における作業状況」「広島の灯ろう流し」を表現し、裏側に全国戦没学徒出身校352校の校名、動員学徒悼歌『ほのお果てては』が記されています。
碑文は、「第二次世界大戦中増産協力等いわゆる勤労奉仕に動員された学徒は、全国にわたり三百数十万人。あたら青春の光輝と、学究の本分を犠牲にしつつ挺身した者のうち、戦禍にたおれたものは一万有余人。その六千余人は原爆死を遂げた。この塔は明眸青雲を望み、将来空高く羽ばたこうとした夢も空しく、祖国に殉じたそれら学徒の霊を慰めようと有志同胞の手によってうち建てた。」です。
この慰霊塔は、政府が原爆や空襲などで亡くなった動員学徒のうち、氏名・死亡日などの判明した者に限り靖国神社への合祀を認めたこと受け(昭和42年3月に合祀)、名簿作成運動を始めた遺族による募金によって建てられたもの。
県外の出身学校名は、この建設運動の趣旨に賛同し、空襲などで亡くなった学生の名簿を送ってきた学校が記載されています。
毎年8月6日には、動員学徒慰霊塔の前で原爆追悼式が開かれています。
動員学徒慰霊塔 | |
名称 | 動員学徒慰霊塔/どういんがくといれいとう |
所在地 | 広島県広島市中区大手町1-3-10 |
電車・バスで | 広島電鉄本線原爆ドーム前駅から徒歩3分 |
ドライブで | 山陽自動車道広島ICから約9km |
駐車場 | 広島市営中島町第1・第2駐車場(42台/有料) |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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