東京湾に突き出した富津岬全体が千葉県立富津公園に指定されていますが、実はその根元の部分に、堀で囲まれた城郭のようなものがあるのをご存じでしょうか?
これが、東京湾防備の要塞の一つ、富津元洲堡塁砲台の跡です。
富津岬の根元に堀に囲まれた城郭が!?
千葉県まちづくり公社の千葉県立富津公園の地図には、堀に囲まれた中の島に富津元洲堡塁砲台と記されています。
ここが、房総半島側の唯一の堡塁砲台の跡。
堡塁(fort)は、コンクリートで築かれた要塞。そこに大砲を備えたのが堡塁砲台で、まさに東京湾防備の前線基地です。
富津岬には明治14年、外国艦隊の東京湾侵入に備え、先端部の海上に人工島の要塞である海堡(かいほ)を2ヶ所(第一海堡、第二海堡)築き、岬の根元に砲台を備えたのです。
明治14年8月に起工したのが元洲灯台。元洲(もとす)という地名は文字通り、富津岬全体が砂州であること、その根元という位置関係を物語っています。
その富津元洲堡塁砲台は、建設に3年の歳月がかかっています。
明治10年代のこと、まだ五稜郭などの西洋的な星型城郭の建築術が現役の頃の建築。
まずは幅20mから30mの外堀を掘り、ここに東京湾の海水を引き入れます。
砂州を掘った砂は盛り土の代わりとし、さらに砂だけだと崩れやすいため青堀駅東側の二間塚地区(現・富津市二間塚)から運んだ土で覆っています。
軍事技術は日進月歩。日露戦争頃にはすでに時代遅れに!
日清戦争直後の明治28年になると東京湾要塞司令部発足し、富津元洲堡塁砲台にも歩兵中隊446名が配置されました。
これは当然、ロシア海軍を睨んだもの。
ロシアは明治30年には旅順、大連を太平洋艦隊の拠点としてアジア進出を図ります。
東京湾防備の要塞として建設され、外堀まで備えた城郭風の富津元洲堡塁砲台ですが、実際には近代的な戦術が発展し、時代遅れに。
明治28年3月24日に28cm榴弾砲6門、12cmカノン4門の備え付けてはいますが、明治37年11月には28cm榴弾砲2門をバルチック艦隊対策として澎湖島要塞・鎮海湾・大連湾方面へ移設しています。
大正4年9月17日には、陸機密第89号により、観音崎第一砲台、箱崎高・低砲台、笹山砲台、夏島砲台、波島砲台とともに富津元洲堡塁砲台はお役御免に(除籍)。
大正9年には富津射場と、大砲の試射場に変身しています。
大正3年に始まった第一次大戦はヨーロッパ戦線が中心で、日本の本土には直接的な影響はありませんでしたが、実は、軍用機の実用化が図られた戦いでした。
それ以前の日露戦争(明治37年〜明治38年)でも、編成された臨時気球隊が旅順攻囲戦などに実戦投入され、戦況偵察に活躍しています。
つまり、外堀を有するような砲台は、敵の偵察機から丸見え。さらに、軍事的な役割も少ない時代となったのです。
毎日新聞社の「ヘリテージング100選」に千葉県では犬吠埼灯台と並び、さらに東京湾要塞では唯一選定されています。
さすがは、毎日新聞社、お目が高い!
富津元洲堡塁砲台 | |
名称 | 富津元洲堡塁砲台/ふっつもとすほうるいほうだいあと |
所在地 | 千葉県富津市富津2280 |
電車・バスで | JR内房線青堀駅から富津公園行バスで終点下車、徒歩20分 |
ドライブで | 館山自動車道木更津南ICから約12km。または、東京湾フェリー金谷港から26km |
駐車場 | 547台/無料 |
問い合わせ | 富津市商工観光課 TEL:0439-80-1291/FAX:0439-80-1350 |
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