「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、生涯に20万を超える句を詠んだ正岡子規の作品のうちで、もっとも有名なもの。『海南新聞』明治28年11月8日号に掲載された句で、「法隆寺の茶店に憩ひて」という前書きがあります。つまり、ある秋の日に、法隆寺の茶店で柿をのんびりと味わっていたら、鐘がゴーンと鳴ったという情景。はたして真実!?
明治28年10月に奈良を旅した正岡子規の思い出の句
正岡子規は、明治28年5月に記者として日清戦争に従軍中に喀血。
神戸で入院治療した後に故郷松山に戻り、夏目漱石の下宿(「愚陀仏庵」)に50日ほど滞在。
病状がよくなったため10月下旬に帰京しますが、その途中で奈良に立ち寄っています。
実は、法隆寺を参詣した10月26日は雨で、大和名産の御所柿を食べたのは、前夜の宿「對山楼」(たいざんろう)での出来事で、鐘の音は東大寺だったのです。
つまりは、この有名な句はフィクションで、正岡子規は、その病状から考えて法隆寺に参詣していないとする説すらあるのです。
加えていえば、この句が『海南新聞』(愛媛新聞の前身)に掲載されたのは、明治28年11月8日。
実は9月6日、夏目漱石が「鐘つけば銀杏(いちょう)散るなり建長寺」という句を『海南新聞』に発表しているので、それのオマージュと指摘する人もいるのです。
それでも没後(正岡子規明治35年9月19日没)の大正5年には、ホトトギス派の俳人・松瀬青々(まつせせいせい=正岡子規は「大阪に青々あり」と賞賛)らによって子規の筆跡に句碑が立てられています。
句碑の立つ場所は、法隆寺の茶店のあった跡地という凝りようです。
また、大の柿好きだった正岡子規は、明治30年に「我死にし後は」という前書きのある「柿喰ヒの俳句好みしと伝ふべし」という句を作っているので、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句が有名になったのは、まさに遺徳といえるでしょう。
ちなみに正岡子規は、このほかに、
「柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな」
「渋柿やあら壁つづく奈良の町」
「晩鐘や寺の熟柿の落つる音」
「柿赤く稲田みのれり塀の内」
という4句を奈良に残しています。
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