會津藩校日新館

會津藩校日新館

福島県会津若松市にある幕末の会津藩の教育機関が會津藩校日新館。享和3年(1803年)に誕生した藩校・日新館ですが、現在の米代1丁目にあった往時の建物は、幕末の戊辰戦争で焼失。昭和62年、会津若松市河東町に復元されたのが現在の會津藩校日新館です。

会津藩の教育機関「日新館」を復元

会津では、寛文4年(1664年)に肥前国出身の岡田如黙(おかだにょもく)を校長に、日本で最初の庶民向け教育機関(儒学教育の場)「稽古堂」が誕生。
会津藩の藩祖・保科正之(ほしなまさゆき)もこの「稽古堂」に地租免除などの特権を与えて藩民教育を奨励しています。
延宝2年(1674年)、上士(上層階級の武士)達の住む外堀のなか、郭内に「郭内講所」を創設したのが藩校・日新館の前身。
生徒数の増加に伴い拡張を続け、享和3年(1803年)に日新館に生まれ変わっています。

日新館の校名は四書(『論語』、『大学』、『中庸』、『孟子』)の一つ『大学』の「苟日新日日新又日新」(まことに、日に新たに、日に日に新たに、また日に新たにせん)から命名したもの。
多額の建設資金は、呉服商・須田新九郎(すだしんくろう/本覚寺が墓所)が大部分を供出しています。
須田新九郎は上杉景勝の家臣の末裔(会津移封に従い、会津若松に土着)。
上杉家の米沢移封の際に、会津に留まり商人になっています。

寛政10年(1798年)、会津藩家老・田中玄宰(たなかはるなか=5代から3代の藩主に仕えた家老で、藩政改革を断行)の「天明の大改革」建議書で、東講所と西講所を統合し、新たな藩校創立が検討されましたが、天明の大飢饉(1782年〜1788年)以降の財政の窮乏もあり、統合を断念。
寛政11年(1799年)、そのことを知った須田新九郎は、「藩校は国の礎」と、巨額の援助を申し出、水練場や天文台まで備えた日新館が完成したのです。

そんな日新館も幕末の慶応4年(1868年)、戊辰戦争(ぼしんせんそう)により校舎は焼失。

往時の日新館があった米代1丁目には日新館跡碑、須田新九郎頌徳碑が立っており、天文台跡も残されています。
天文台は、薩摩造士館、水戸弘道館と日新館だけにあり、「天下の三館」と称されていました。

ちなみに会津には今も庶民教育の流れが脈々と息づき、会津若松市生涯学習総合センターの愛称は「會津稽古堂」になっています。

會津藩校日新館
名称 會津藩校日新館/あいづはんこうにっしんかん
所在地 福島県会津若松市河東町南高野高塚山10
関連HP 會津藩校日新館公式ホームページ
電車・バスで JR広田駅からタクシーで5分。または、JR会津若松駅からタクシーで15分。
ドライブで 磐越自動車道磐梯河東ICから約4.4km。または、会津若松ICから約9.5km
駐車場 200台/無料
問い合わせ 會津藩校日新館 TEL:0242-75-2525/FAX:0242-75-3215
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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