智恵子の生家

智恵子の生家

福島県二本松市、二本松市智恵子記念館に隣接して建つのが智恵子の生家。高村智恵子の生家をそのまま保存、ミュージアムにしたもの。生家は米屋という屋号で、「花霞」を醸した造り酒屋で、明治の初期に建てられた生家には、銘柄「花霞」の看板が掲げられ、新酒の醸成を伝える杉玉が下がっています。

高村智恵子の生家を復元、2階には智恵子の部屋が!

智恵子の生家は、旧安達町(現・二本松市)が、ふるさと創生事業(時の内閣総理大臣・竹下登が発案した公共事業)で「智恵子の生家」を買収したもので、当時の面影をそのままに、2階には智恵子の部屋が復元されています。

高村智恵子は、明治19年5月20日、安達郡油井村(現・二本松市油井)の酒造業・斎藤今朝吉(後に長沼家に養子入り)の長女として生まれ、明治34年、油井小学校高等科を卒業、福島高等女学校3年へ編入学。
明治36年に日本女子大学校家政学部に入学、明治40年に卒業後、明治44年、26歳で雑誌『青鞜』の表紙を担当。

明治45年、犬吠埼への写生旅行で高村光太郎に出会い、翌大正2年には光太郎の後を追って上高地へ向かい、2ヶ月ほど清水屋(現・上高地ルミエスタホテル)に滞在し、一緒に絵を描き結婚を決意しています。

智恵子は、若き女性芸術家として注目されますが、父の死、昭和4年の長沼家の破産・一家離散などの悲運が重なり、生来の病弱に統合失調症が重なり、光太郎と東北地方の温泉を巡るも病状は悪化。

昭和10年、南品川(現・東京都品川区)のゼームス坂病院に入院し、療養。
患っていた肺結核のため、53歳という若さで昭和13年10月5日に没。
昭和16年、光太郎が詩集『智恵子抄』を刊行し、その名は一躍有名に。
智恵子の忌日・10月5日は高村光太郎が智恵子の臨終をうたった詩『レモン哀歌』にちなんで、レモン忌と呼ばれています(ゼームス坂病院跡地に慰霊碑 『レモン哀歌の碑』が立っています)。
長沼家の菩提寺、満福寺では毎年、『レモン忌』の法要を実施。

智恵子の生家
智恵子の生家
名称 智恵子の生家/ちえこのせいか
所在地 福島県二本松市油井漆原町36
関連HP 二本松市公式ホームページ
電車・バスで JR安達駅からタクシーで5分
ドライブで 東北自動車道二本松ICから約4.4km
駐車場 20台/無料
問い合わせ 二本松市智恵子記念館 TEL:0243-22-6151
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
二本松市智恵子記念館

二本松市智恵子記念館

福島県二本松市にある高村智恵子の生家敷地に建てられた記念館が二本松市智恵子記念館。高村智恵子は、詩人・高村光太郎の妻で、彼の詩集『智恵子抄』にも登場。病の冒されながら切り絵や油絵を残した芸術家でもあり、洋画も残しています。館内には智恵子をし

レモン哀歌の碑

レモン哀歌の碑

東京都品川区南品川6丁目、ゼームス坂通りから少し入ったところに立つのがレモン哀歌の碑。正式名は高村智恵子記念詩碑で、高村光太郎の妻・高村智恵子が入院したゼームス坂病院があった場所で、昭和13年10月5日に肺結核で没。高村光太郎が智恵子の臨終

 

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