大内峠(下野街道)

大内峠(下野街道)

福島県南会津郡下郷町と会津若松市との境にあるかつての下野街道(しもつけかいどう)の難所が大内峠(おおうちとうげ)。大内峠周辺には約10kmの古道と三郡境の塚(大内峠北側)、大内峠茶屋跡(茅葺きの茶屋を復元)、大内峠一里塚、中山峠越えの馬頭観世音碑などが現存し、国の史跡に指定されています。文化庁の「歴史の道百選」にも選定。

会津西街道の難所、峠越えの旧道が現存

大内峠(下野街道)

会津(あいづ=福島県会津地方)と下野国(しもつけのくに=栃木県)・今市(現在の日光市今市)を結ぶ街道は、会津では下野街道、逆に関東・下野国(現・栃木県)側では会津西街道と呼んでいました。
会津若松城下と江戸を結ぶ最短ルートで、会津藩の年間数万俵にも及ぶ江戸廻米の輸送路にもなっていたほか、会津藩、越後の新発田藩・村上藩、出羽の庄内藩、米沢藩などの参勤交代にも利用されていました。
譜代大名で松平家の保科正之(ほしなまさゆき)が会津藩主となってから整備が進み、保科正之自身も江戸参勤と日光社参に頻繁にこの街道を利用しています(保科正之と、その子・保科正経は、20回以上この街道を利用しています)。

天和3年(1683年)の地震による山崩れで、参勤交代と廻米輸送は白河ルートに変更されていますが、以降も天領の南山御蔵入領の年貢米や坂下煙草、麻、椀木地などの輸送や、今市を経由して会津地方へ塩を運ぶ道、日光社参の道として利用されています。

明治17年の福島県令・三島通庸(みしまみちつね)による新道開設まで物流のメインルートとして機能した下野街道は、大内宿と大内峠一帯には古道が残り、国の史跡となっています。
江戸時代の宿場町の面影をそのままに残す大内宿は、重要伝統的建造物群保存地区に指定。

旧街道の大内峠の下郷側に位置する大内峠一里塚までは大内ダム湖の東岸からダートながら車道も通じています。
茶屋が復元される峠までは徒歩で10分ほど。
大内峠は幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際、会津藩の防御拠点でもあったため、激戦地となっています。

明治11年に会津地方を旅したイギリスの女性探検家で紀行作家のイザベラ・バード(Isabella Lucy Bird)の『日本奥地紀行』(Unbeaten Tracks in Japan=原題:日本における人跡未踏の道)にも下野街道が詳細に説明されていますが、なぜか大内峠を使わず、大内宿から市川峠(市野峠)を経て、会津盆地に入っています。

下野街道は、日本遺産「会津の三十三観音めぐり」の構成資産にもなっています。

大内峠(下野街道)
名称 大内峠(下野街道)/おおうちとうげ(しもつけかいどう)
所在地 福島県南会津郡下郷町大内薬水
ドライブで 磐越自動車道会津若松ICから約30km、または、新鶴スマートICから約27km
駐車場 大内峠一里塚跡(5台/無料)
問い合わせ 下郷町事業課産業振興班商工観光係 TEL:0241-69-1144
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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