静岡県掛川市にあった山内一豊(やまうちかずとよ)が近世城郭に整えた城が、掛川城(日本100名城に選定)。二の丸御殿、大手ニの門が現存し、国の重要文化財に。平成6年4月に再建された天守は、10億5000万円を費やした日本初の木造復元天守。和釘を使用するというこだわりの復興天守となっています。
江戸時代、天守は2度の大地震で倒壊

戦国時代には、甲斐国(山梨県)の武田信玄、三河国(愛知県)の徳川家康と挟み撃ちにあった今川氏真(いまがわうじざね)の支城。
今川氏真は、天文20年(1551年)、父・今川義元(いまがわよしもと)が上洛を目指し、甲相駿三国同盟(武田信玄・北条氏康・今川義元の同盟)を締結する過程で元服前に北条氏康の四女・早川殿と婚姻しています。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で、今川義元が織田信長に討たれると家督を継ぎますが、離反するものも多く領国の経営は多難を極めました。
小田原攻めで今川家が滅び、徳川家康が関東に封じられると豊臣家臣の山内一豊が掛川城に入り、東の家康を睨む地となりました。
山内一豊は、近世的な城郭に大改修。
関ヶ原合戦では家康に与しますが、高知に転封され、以降は東海道の要衝として、譜代大名の城となっています。
掛川の地は、江戸時代、何度も大地震の被害に遭遇。
慶長9年(1604年)の慶長地震(太平洋岸に大津波が襲来)、安政元年(1854年)の安政東海地震(南海トラフ巨大地震)で天守が倒壊。
安政東海地震後には再建されていないので天守がないまま、明治維新を迎えています。
再建された掛川城天守、よく見ると、高知城!?

最初の天守は、天正18年(1590年)、山内一豊時代のものですが、慶長9年(1604年)の慶長地震で倒壊しているので、わずか十数年の存在です。
元和7年(1621年)再建の天守も安政元年(1854年)に倒壊していますが、200年以上君臨していたのはこの天守です。
この再建天守は、、『遠江国掛川城御天守台石垣土手崩所絵図』にも残されているので、外観などが確認できます。
現在の天守は、 市民や地元企業などから10億円の募金を集め、青森ヒバを使って建築された木造。
往時の天守を見事に木造で蘇らせたというアッパレな建築物ですが、実際に、どの時代の天守なのでしょうか?
復元にあたって、『正保城絵図』、『御天守台石垣芝土手崩所絵図』、『遠江国掛川城地震之節損所之覚図』などの文献を参考にしていますが、もっとも似ているのは高知城の現存天守。
高知城に現存する天守は、寛延2年(1749年)、焼失前の姿の外観を再現し、少し小ぶりに再建したもの。
つまりは山内一豊時代の似せた外観の天守ながら少し小ぶりということに。
この高知城天守が、山内一豊時代の雰囲気を残すということで、「山内一豊時代の掛川城天守」を強く意識して再建したのが現在の天守というわけです。
高知城天守を築くにあたり、山内一豊は「掛川の通り」と指示したといわれ、それが根拠となって残存した天守台の大きさをベースにして現在の天守を再建しています。
復元にあたっては大工、左官、瓦職人などの熟練の技術を駆使し、織田・豊臣系の天守建築の技を現代に再現するという至難の工事となりましたが、天守に上ると、平成の天守とは思えない重厚な雰囲気を感じ取ることができます。
それでも往時の掛川城ではなく、あくまでも高知城を模した「山内一豊が築いたならこんな感じだろう」天守。
それを頭に入れながら天守と、内部の展示も充実の二の丸御殿を巡れば、最高の城郭巡りを楽しむことができます。

| 確実に誤解を生む! まさかの天守閣(30)掛川城|静岡県 | |
| 名称 | 掛川城/かけがわじょう |
| 所在地 | 静岡県掛川市掛川1138-24 |
| 関連HP | 掛川城公式ホームページ |
| 電車・バスで | JR掛川駅から徒歩10分 |
| ドライブで | 東名高速道路掛川ICから約2kmで掛川大手門駐車場 |
| 駐車場 | 掛川大手門駐車場(201台/有料) |
| 問い合わせ | 掛川城公園管理事務所 TEL:0537-22-1146 |
| 掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 | |












