天明3年(1783年)年の浅間山の大噴火。浅間山の爆発で流出した溶岩の規模は山頂火口から北方へ約5.5km、幅は800m~2kmにも及んでいます。溶岩流の跡が世界三大奇観ともいわれる鬼押し出しですが、北軽井沢にはもうひとつ、「日本のポンペイ」といわれるスポットが。それが鎌原観音堂(かんばらかんのんどう)です。
天明3年(1783年)、浅間山が大噴火!
天明3年(1783年)の浅間山の大噴火では、噴火の最末期の7月7日(西暦8月4日)に吾妻火砕流(あがつまかさいりゅう)、7月8日(西暦8月5日)には鎌原火砕流(鎌原土石なだれ)と鬼押出し溶岩流が噴出しています。
この天明大噴火で、村が存亡の危機を迎えたのが、上野国吾妻郡鎌原村(現在の群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原地区)。
鎌原村では村内の152戸が飲み込まれて477名(供養碑に刻まれる数)が死亡したほか、上野国(現在の群馬県)全体でも、土石流や水害などで死者1624名を超す大きな被害が生まれています。
天明大噴火による爆発で流出したのは溶岩だけでなく、大きな火砕流(岩屑なだれ、さらに熱泥流)も山腹を走っています。
これは本場のポンペイにあるヴェスヴィオ火山も浅間山も同じ。
西暦79年の夏、ヴェスヴィオ火山から噴出した700度にも及ぶという高温の火山灰と火山ガスは時速80km/hという猛スピードで山肌を流れ下り、ポンペイの人々を襲ったのです。
天明大噴火で浅間山の北東、大笹(仁礼街道の宿場と関所がありました)方面に流れ出した火砕流は、大前(JR吾妻線の終着駅・大前駅一帯)で吾妻川(あがつまがわ)に流れ込み、中央を北流したものは、旧鎌原村を直撃、さらに現在のJR吾妻線万座・鹿沢口駅東側で吾妻川に流下しています。
規模としては中央に流下した鎌原火砕流(鎌原土石なだれ)が最大で、流下した量は1億立方メートル(東京ドーム80杯分以上)にも及びます。
「天明の 生死を分けた 十五段」
鎌原観音堂奉仕会の調べでは、災害当時の鎌原村の人口は570人、死亡者数477名に対し、生存者はわずかに93名だったと推測されているのです。
「七月六日、八ッ時より頻りに鳴立、きびしき天も砕け地も裂かと皆てんとうす。先西は京・大阪辺、北は佐渡ヶ嶋、東えぞがしま松前、南は八丈、みあけ島迄ひびき渡り物淋しき有様なり」
(上野国吾妻郡大笹村・無量院住職『浅間大変覚書』)
鎌原村には観音堂があり、ここに参拝していた人、必死に逃げ登った人は幸いにして九死に一生を得ています。
浅間山噴火前には観音堂に上る参道に50段の石段があったのですが、現在はすっかり埋まって15段だけが残存。
これが俗にいう「天明の 生死を分けた 十五段」ということに。
昭和54年の調査では、埋没した石段の最下部で女性2名の遺体を発見。
若い女性が年配の女性を背負うような格好で見つかり、娘が母を背負って逃げる途中で火砕流に襲われたものだと推測されています。
背負われていた方の推定年齢は45歳~65歳で、身長は140cm~145cm。
背負っていた方は推定30歳~35歳で、身長は134cm~139cm。
2人とも女性で、骨の状態から、農作業に従事していた村人だったと考えられています。
この観音堂、大同元年(806年)創建されたという古刹で、天明の大噴火の危機から村民を救ったことにより、現在では厄除け祈願の寺として有名に。
同じ群馬県では昭和57年に発掘された黒井峯遺跡(群馬県渋川市中郷)が「日本のポンペイ」と話題を呼びました。榛名山の噴火で吹き出された軽石にすっぽり埋まってしまった古墳時代後期(6世紀前期)、つまりは1500年前の村。
村存亡の危機からの復興
鎌原村では村が存亡の危機に立たされますが、大笹村の名主・黒岩長左衛門、千俣村・干川小兵衛、安左衛門の尽力で再建が始まります。
被災地を免れた田畑が生存者93名に均等配分し、夫をなくした妻、妻をなくした夫など年内に10組が縁組しています。
天明3年10月24日、7組が祝言を挙げ、さらに12月23日に安治郎、富松、千之助、祝言を挙げ、天明4年正月、新築11軒誕生と記録されています。
天明3年(1783年)11月5日、大笹村名主・黒岩長左衛門は出立し、原町で矢島五郎兵衛、山口六兵衛と合流して11月19日に江戸に着き、幕府の勘定所へ出頭。
勘定所では大笹村の長左衛門、干俣村の小兵衛、大戸村の安左衛門の3名に対し、銀10枚を与え、一代帯刀と永代苗字を許可。
また、原町の五郎兵衛と六兵衛には銀3枚を与え、一代帯刀と永代苗字を許しています。
当時の鎌原は信州街道(大戸通り=高崎〜下室田〜三ノ倉〜大戸関所〜本宿〜須賀尾〜狩宿〜関所〜小宿〜鎌原〜大笹関所)の宿場でもあり、鎌原で沓掛(現在の中軽井沢)へと分ける沓掛街道(草津街道=分去茶屋〜峰の茶屋・鼻田峠〜沓掛・信濃追分)が分岐する交通の要衝にもなっていました。
鎌原宿を通る荷は草津で消費される酒、米、江戸に送られる硫黄などでした。
北信三藩(飯山藩、須坂藩、松代藩)の年貢米も鎌原宿を通過し、交通の要衝だったことから簡単に廃村にするわけにはいかない理由もあったのと推測できます。
大噴火から約50年が経った文政12年(1829年)の『鎌原村明細帳』には、家数39軒、人数男女合183人と記され、被災直後に比べれば人口も倍増し必死な復興の姿が数字からも垣間見ることができます。
この嬬恋村鎌原地区は、大河ドラマ『真田丸』で注目の真田一族ゆかりの地で、真田氏の上州進出の拠点となった場所です。
「鎌原城を基地として、真田氏は羽根尾城(長野原町)や岩櫃城(東吾妻町)、嵩山城(中之条町)などを攻略し、信州上田から上州吾妻・沼田方面へ領地を拡大していきました」と嬬恋村では積極的にPRしています。
『キャベツ畑のなかで愛を叫ぶ』という「キャベチュー」のイベントでも知られる嬬恋村ですが、キャベツ畑の下は火山灰土。
こうした浅間山噴火の歴史を秘めているのです。
鎌原観音堂 | |
名称 | 鎌原観音堂/かんばらかんのんどう |
所在地 | 群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原 |
関連HP | 嬬恋村公式ホームページ |
電車・バスで | JR吾妻線万座・鹿沢口駅から西武高原バス軽井沢行きで鎌原観音堂前下車、徒歩1分。長野新幹線・しなの鉄道軽井沢駅から西武高原バス草津・万座温泉・白根火山方面行きで鎌原観音堂前下車、徒歩1分 |
ドライブで | 上信越自動車道碓氷軽井沢ICから約36km |
駐車場 | 30台/無料 |
問い合わせ | 鎌原観音堂 TEL:0279-97-3852 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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