白旗神社(源頼朝墓所)

白旗神社(源頼朝墓所)

建久9年(1199年)12月27日、源頼朝は、御家人・稲毛重成(いなげしげなり)が亡妻の供養のために相模川に架けた橋の落成供養の帰途、落馬したことが原因で没しています。頼朝は鎌倉の持仏堂(後の法華堂)に葬られましたが、明治の廃仏毀釈で法華堂は破却され、明治5年にその跡地に頼朝を祀る白旗神社が建立されています。

源頼朝だけでなく、北条義時もここに眠っている

白旗神社(源頼朝墓所)

源頼朝の死因は、相模川の橋供養の帰路に病を患ったことは歴史書に記されていますが、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』は落馬、承久の乱を記した合戦記である『承久記』には「水神に領せられ」、『猪隈関白記』は「飲水の病」と記されており、定かでありません。
「水神に領せられ」、あるいは「飲水の病」という記述から、頼朝の跨った馬が突然暴れて川に入り、落馬して重体になったとも推測されています。

いずれにしろ、相模川の落成供養の日から17日後の建久10年1月13日(1199年2月9日)、頼朝は鎌倉で没しています。

埋葬された場所は、源頼朝が幕府を開いて最初に政務をおこなった大倉御所(大蔵御所)の北隅にあたり(大蔵幕府跡推定地北側の山稜部とその南側山裾部)、念持仏を祀った持仏堂がここに建てられていました。

鎌倉幕府も手厚く保護し、命日である1月13日には、御家人などが参詣していました。

建暦3年(1213年)5月2日、御家人・和田義盛の反乱「和田合戦」では、鎌倉で激しい市街戦が展開されましたが、時の将軍・源実朝(みなもとのさねとも)は和田軍の放った火から逃れるためにここに避難しています。

宝治元年(1247年)には、三浦一族の御家人・三浦泰村(みうらやすむら)が北条時頼と安達景盛の策謀によって反乱となり(宝治合戦)、ここに逃げ込んでいますが、三浦一族と与党500余名は、法華堂で自害しています。

高さ186cmの五輪塔一帯は、「法華堂跡(源頼朝墓)」として国の史跡になっています。
なお、法華堂跡(源頼朝墓)の東隣の山稜平坦地が2代執権・北条義時の法華堂跡と推測され、『吾妻鏡』などに頼朝法華堂と義時法華堂を併せて参拝したことが記述されることから、すぐ横が北条義時の墓であることも判明しています。

ちなみに、白旗は源氏の旗印。
赤旗は平家の旗印で、この源平合戦に由来する紅白の旗印が、紅白歌合戦などの由来になっています。
鶴岡八幡宮の境内にある摂社・白旗神社は、鶴岡八幡宮の社伝によれば、北条政子が朝廷から白旗大明神の神号を賜り、正治2年(1200年)に創建。

つまりは最初に創建された白旗神社は、鶴岡八幡宮の境内社です。

大倉御所(大蔵御所)
治承4年(1180年)〜承久元年(1219年)の39年間、相模国鎌倉大倉郷(現・神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯)に鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)住まう大倉御所がありました。
清泉小学校橫に「大蔵幕府跡」の碑が立っています。
白旗神社(源頼朝墓所)
名称 白旗神社(源頼朝墓所)/しらはたじんじゃ(みなもとのよりともぼしょ)
Shirahata-jinja Shrine(Yoritomo Tomb)
所在地 神奈川県鎌倉市西御門2-5
電車・バスで JR鎌倉駅から徒歩25分
ドライブで 横浜横須賀道路朝比奈ICから約5km
駐車場 なし/周辺の有料駐車場を利用
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